真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

『I-knew_it_was_you_john_cazale』 ジョン・カザールの顔は映画の顔

2010-12-30 | DVD




ジョン・カザールは僕の大のお気に入りだ。生涯にたった5本の映画にしか出てないし、しかも全部脇役だが、それでもカザールの顔が観たくて出演作のDVDを観ることがあるほどだ。

『ゴッドファーザー』(72、フランシス・フォード・コッポラ)『ゴッドファーザーPART2』(74、コッポラ)『カンバセーション…盗聴…』(74、コッポラ)『狼たちの午後』(75、シドニー・ルメット)『ディアハンター』(78、マイケル・チミノ)……どれもがアクターズ・スタジオ流演技の集大成的な名作である。一般的には、アル・パチーノ、ジーン・ハックマン、ロバート・デ・ニーロらの名演技で知られてる有名だが、その彼らが愛したジョン・カザールのことも忘れることはできない。

『ゴッドファーザー』とその『PART2] における次男フレドー役、『狼たちの午後』のサル役と聞けば、思いだす人もいるだろう。
あの、マイケルの兄のフレドー。可哀相なフレドー。やさしいだけが取り柄のフレドー。兄を殺したアル・パチーノ扮する弟のマイケルは、その罪から生涯逃れられない……当然である。フレドーはマフィア一家の人間としては駄目な兄に違いない。しかしマイケルはなぜ庇ってやれなかったのか。
『PARTⅠ』で、ドンであり父のビト(マーロン・ブランド)が果物屋に買い物に行く時、お供することになったフレドー。運転係の裏切りを見抜けずに代わり引き受け、敵対組織の銃撃の雨にさらされる父を守ることもままならかった。あわてて銃を手に取り、車から飛び出したまではいい。しかしマフィアの守り神たる拳銃も、フレドーの震える手にかかれば、両の手の平の中でくるくる綿毛のごとく舞っているしかなかった。
結局、弾の一発も撃つことのできぬまま刺客を捕り逃がし、戦後ニューヨークの薄汚れたコンクリートに横たわり上物のコートから血を流す父の傍らに膝をつき、頭を掻きむしりながら泣きべそをかいて、思わず「パパ!!」と呼びかけるしかないフレドー。『PARTⅡ』における母の葬儀の場面。冷血の瞳に無言の口元をたたえた弟のマイケルは、窓際のソファーに沈み込むように横たわる愚かなる裏切り者の兄フレドーを見すえる。フレドーは視線に耐えかね「なんで俺を尊敬してくれないんだ!! 俺はこれでも兄なんだぞ!」とヒステリーを起こす。あの惨めさ。完璧から程遠い人間の愛しさ。

出番が少なく役柄としてもいいところのないフレドー役だからこそ、その人格を深く理解して演じることのできる役者が演じなければならない。でなければ、この約はただのその他大勢に成り下がってしまう。
なによりフレドー役はドラマの軸となる「コルレオーネ兄弟」の一人なのだ。マイケルは組織を拡大しマフィア組織をアメリカン・コーポレートの大企業にまで押し上げた。しかしそれでも、マイケルはあのフレドーを殺した大罪を背負い続けねばならない。哀れな裏切り者の兄だろうが、自らの手を血縁の血で汚した過去を忘れることなどできるはずもないのだ。フレドーはシリーズの底を流れる魂であり、だからこそ、その「人間」を観る者のまぶたに焼き付けることのできる役者でなければ勤まらない。カザールという役者の、いまだかつて見たことのないような容姿(それ自体が人間性の発露だと言える)と類稀なる演技力がなければ、このフレードー役は屹立し得なかったに違いない。

僕はカザールの出身や下積み時代の経歴も知らない。舞台経験のある人なのだろうが、いわゆるアクターズ・スタジオ風でもないように見える。カザールのたたずまいは、パチーノやデ・ニーロら「いわゆるアクターズ・スタジオ式」の仰々しさとは、まるで無縁なのである。あくまで自然体。カザールは常に日陰の存在だが、どの作品においても確かな印象を残すことで、ドラマを支えてきた。彼こそ名脇役。類稀なる真の名脇役だといえる。

『狼たちの午後』のベトナム戦争帰りの素人銀行強盗の相棒役、広いおでこに真ん中分けの油っぽく長髪で印象に残った。『カンバセーション』では盗聴家業の技師役でメガネをかけて登場、野心家のオタク的ムードをさりげなく出した。『ディアハンター』でも気が小さいくせにいつも粋がっている普通にみれば「嫌な男」を人間くさく演じて見事だった(後半のヒゲ姿がいい)。このようにカザールは、役柄に容姿を合わせた役作りの名手である。しかしその「顔」がそれらメークの類を凌駕するのは、あのただごとでない異貌、その眼と額の造形の個性に、「ジョン・カザールここにあり」を思わせる役者魂を宿らせた。

70年代を代表する名作群を撮りあげた優れた映画作家たちとのコラボレーション。彼らは「ジョン・カザールの異貌」をまず必要とし、その造形のなかに類稀なる「人間性」を認めたのに違いない。監督たちはカザールを必要とし、彼の常人と異なる「弱さ」や「優しさ」のニュアンスを掬い上げることによって「男の繊細」を表現し得たのである。
70年代は映画の革新時代である。マフィア、銀行強盗、ベトナムの戦場などいっけん男くさい世界で、それを表現し得たことは、それ自体ひとつの偉業だった。時の記録たる集団表現としての「映画」は先鋭化し、リアルな人間を見つめることで、その芸術的な可能性を開花させていった。そのなかで、着実に、確実に生きてみせた一人がジョン・カザールであり、その「地に足のついた演技」は他に比すもののない存在感を示している。彼はその異貌によって普遍的な人間像を打ち立てて見せたのである。





残されたたった5本のフィルム。いまDVDでそれらを順に見ることができる。それらはジョン・カザールという役者、ジョン・カザールという人間の生きた足跡であり、死に至る道のりへの記録である。
そもそも映画というものはあらゆる生と死を捉えるものであり、なにもカザールだけを大げさに言いたいわけではない。わざわざすでに有名な役者たちの偉業をあらためて讃えたいとは思わないが、ややもすればカザールは日陰の花として見落とされがちだから、あえて書きたいと思ったのである。
大体、カザールに大袈裟な形容は似合わない。ささやかかつさりげない役者であり、だからこその人間性をフィルムに焼きつけるが出来たのが「ジョン・カザールという名優」なのだ。

ザ・ドアーズのジム・モリソンの詩集に「君は映画になるような人生を送っているかい?」というような内容のものがあったが、カザールの演じた人間の人生は「映画になるような人生」ではなかった。主役の脇に佇むその他大勢であり、その切迫した感情であった。70年代の映画はそうした人間像を頻繁に描いた。いまあらためて振り返ると、多くの役者が「いかにも70年代的な人物像」として終わってるなか(それはそれで素晴らしいのだが)、カザールの場合それとも違ってその表現が古びることがない。その理由の分析はできない。カザールは名声に興味はあったか? それも分からない。彼はただ「役者」に見えるのである。その作品群のなかに居るのは「ジョン・カザール」と「彼の演じる人物」だけだった。役のなかの人生を無心に生きることで彼は逆説的に「ジョン・カザール」を生きていた。観る者は彼の体温を肌身に感じることができるだろう。

そうしてジョン・カザールは見事な作品群に参加し、アメリカ映画史の一部となり、その足跡を残すこととなった。名優たちが火花散らす名作のなかで、ただ役を生きたカザールは、美しくも格好良くもなかったが、ドキュメンタリー映画がつくられた。『I knew it was you john cazale』という作品。メリル・ストリープ、ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、フランシス・フォード・コッポラやシドニー・ルメットらが語るという。
是非観たいものだが、日本ではどうだろう。




渡部幻


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