ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

「日出処の天子」山岸凉子

2018-09-20 06:09:34 | マンガ


「日出処の天子」この少女マンガがとてつもないクオリティで描かれているのは読めば判ることなのに、何故今まで他のメディアで取り上げられることが皆無なのか。皆無、と言っていいと思う。少なくとも私は噂も聞いたことがない。
私としてはアニメ映画にも実写映画にもなりTVでわいわい語り合ってもいいと思うのですが。

まあ、答えはわかっているのですよね。



以下、内容に思い切り触れますので、ご注意を。




ひとつは主人公・厩戸皇子が明確に同性愛者として描かれていることで、これがもう揺るぎない理由なわけです。
これが他でよくある「そうじゃないかと匂わせる」描写であれば全く問題ないのだけど、そのことが物語の核になっていてしかも極端な「女嫌い」(女性嫌悪症という方が適切かもしれない)でこれが救いがたく酷いのですよ。

「日出処の天子」の歴史解釈の面白さ、際立ったキャラクター、美しい作画、知性あるセリフ、演出の巧みさ、どれをとっても他に類を見ない優れた作品なのにもかかわらず主人公が同性愛者で女性嫌悪者であることで無視されてきてしまった。まるで隠蔽されるが如くに。あまりにもったいないではありませんか。

それにしても、と思う。
作者・山岸凉子は何故ここまできっぱりと厩戸皇子を同性愛者として描いてしまったのか。匂わせる、という描写ではだめだったのか。深読みすればわかるけど、表面的にはどちらとも取れる、的な書き方はあったはずなのですよね。

他メディアで取り上げられない、もう一つの問題はラストの厩戸皇子の結婚相手の描き方もあるでしょう。厩戸皇子が同性愛であることにあまり違和感を持たなかった少女マンガ読者も結末に衝撃を覚えた人は少なくなかったのではないか。実は私も最初読んだときはかなりの抵抗があったように思う。
これも描き方はあったはずなのだ。気狂いの描写でも「あくまで綺麗で何もできない解らないぼんやりした女性」にするというやんわりとキレイ目で抑える方法もできたはずです。でも作者はそうは描かなかった。あくまでも結婚相手の女性を貶める描き方にした。

何故山岸凉子はこうまで描いたのか。どうして作者は己の代表作となる絶大な歴史ドラマを作り上げながらたぶん世にはばかる原因となる主人公が女性嫌悪者であり、同性愛者であることを回避することはできなかったのか。
答えは作者が描きたかったのは、まさしくそこだったからなのでしょう。

ま~描かれてからずいぶん時間が経ってますので他でもいろいろ書かれていて今更ながらでしょうが、自分も書きたいのでちょっと書かせてくださいね。

山岸凉子のマンガ作品はほぼ闇の部分でできています。
そのために本作に限らずなかなか一般メディアで騒がれたりすることがないんですね。
しかしこの世界はまさにそういった闇の部分にたえず支配されているわけです。そしてそのことに苦しむ人はいつもいるわけです。

山岸凉子氏は多くの作品の中で絶えず問答してきました。
何故、男女は愛し合ってしまうのか。なぜ男性は若く美しい女性を求めるのか。それがないものは価値がないのか。何故人は醜く年老いていくのか。
別の者から言えば「当然のことじゃないか」というような、あるいは「そう極端ではなく、男性でも若く美しくもない女性に惹かれる人もいるし、そうじゃなくても価値はあるし、年を取るのが悪いわけでもないのでは」とも言えるのですが、最もそう思い込んでしまい、それが極端な考えだと思いながらもそれから離れられないのが山岸凉子という作者なのです。
そして他人の愛を欲しながらもその実愛しているのは己だけなのだということへの嫌悪感につきまとわれているのです。
このことも当然と思ってしまえばそれまでなのですが。

世の中の作品の多くの主人公が作者の写し鏡なのと同じように厩戸皇子もまた山岸凉子本人を写しているのだと思います。
自分の魂の片割れ、とまで思った毛人が自分を愛せないのは自分が女性ではない、から。
「まっとうな男性」である毛人は若く美しい女性との間に子供ができることを自然の理として願っている。
昔の人ではなく現在におられる作者にこのあたりの指摘をするのは正直気が引けるのですが、当時の力量のある少女マンガ家たちが軒並み結婚もせず出産もされてないことにもある闇を感じてしまうのですよ。
どうして少女マンガ家24年組は結婚していないのか。男性マンガ家はほぼしていますよね。何故?もう少し後の少女マンガ家になると結婚もありなのですが、あの世代の女性で男性と同じように働いていると結婚はなかった、のですかね。
そして少し仕事が一段落しても世の男性は「若く美しい女性」を結婚相手に求める、と。高い知性と才能を持った彼女たちは結婚相手ではなかった、のですね。

身内(味方)にレイプされ精神が歪んでしまう刀自古(毛人の同母妹)事実を知りながら何も言えない母親、厩戸皇子と政略結婚させられ皇子を愛してしまう大姫、河上娘、小手子、いろいろな女性が登場して面白い物語であるのですが、誰もが女性の弱さが醜い形で描かれていきます。話が面白く演出がうまいので気にせず読んでしまうのですが、厩戸皇子でなくとも女性嫌いになりそうです。唯一頼もしいのは額田部女王くらいでしょうか。
布都姫も綺麗なので見惚れますがとにかくイライラさせられますし、厩戸皇子の母親間人媛に至っては優し気な顔なのにここまで我が子を拒否するとは、いやいますよね確かに。

が、最も嫌悪すべきなのはやはり毛人なのではないでしょうかね。
ずっと厩戸皇子に惹かれ、利用しておきながら(彼が厩戸皇子を助けた、とも言えるのですが世間体としては利用している)最後で彼を拒否する。
しかし最後の別れの場面は私はむしろほっとしてもいたのです。厩戸皇子は毛人にへつらいすぎてしまっていたのです。

この物語の結末を読んでしばらくして私は考えました。この話、普通であれば特別悲劇ではないのでは、と。
ふたりはまだまだすごく若い一時期の激情でケンカしちまったのですが、少し時間を置いて落ちつき再会してやり直す歴史もありのはずですよ。
「えーそんなこと言ったっけ?」てなもんですよ。「あの時はちょっと俺感情的になっちまって、ごめんな」みたいな。
布都もいなくなったし、厩戸皇子は結婚したけど、別にそんなの男同士の付き合いに特別問題ないっしょ。
厩戸皇子は割り切ってゲイクラブか発展場ででも遊びまわって毛人にはパワハラでセクハラすればいいわけですし、毛人も出世とためとなればある程度は我慢するでしょ。酔った勢いでことに及ぶのもありっすよ。男同士ですからね。
危機が訪れれば「お前の力を貸してくれ」ってんで超能力を発揮してもどーせあの優柔不断な毛人は力を貸すんですよ。そういうやつです、あやつは。
そういってどーんとかまえてゲイパワー発揮して人生楽しめばよかったんですよ、厩戸皇子はね。

それは男のまっとうなやり方です。


そうでなかったのは、やはりこれが女性である山岸凉子の変わり身としての厩戸皇子だったから、なんでしょうね。
女性という魅力にすがる女性を嫌悪する厩戸皇子に気持ちを代弁させたのですね。

なので「日出処の天子」は同性愛なし、女性嫌悪なしでは描けなかった。まさにそこが描きたいがためにこの膨大な歴史マンガを作り出したのだから。

つまりもしアニメ化の際に「同性愛と極端な女嫌いは少し緩くして作り直しました」ではもう作品の意義はなくなってしまうのです。
子供を産む女、自分をその気にさせてくれる若くて美しい女のみを求める男たち、理想の男性に見える毛人ですらその枠の中の男でしかないし、逆に言えばその枠の中にいない男は男と思えないというジレンマもあるのです。
そしてそんな男にすがるしか能のない女たち。
山岸凉子の作る物語には繰り返しそれが描かれてきた。
 
山岸凉子が描く理想の男性像っていつもすらりとした長身で眉根を寄せた神経質そうな感じで決まって若い美女が好きという設定で、自分としてはどうしてこのタイプが理想なのかいまいちわからないのです。
例えばアラベスクではユーリ先生よりエーディクやレミルのほうが可愛いし、「テレプシコーラ」では大地くんじゃなく、拓人くんを好きになってもいいのではないですか。そういった絶対的価値観が山岸マンガの女性を不幸にしていく気がします。

が、そこが山岸マンガの面白さなのですから変わってもらったら山岸マンガではなくなるわけですね。その歪んだ理想のなかに闇がある。
その闇が消えることはない。

話が随分流れてしまいました。

「日出処の天子」は作者の心の闇を歴史物語の中に巧みに練りこまれ産み出された作品なのですね。
それは生半可に受け止めきれるようなものではないのです。

だからこそ他メディアが容易く作り変えきれるものではなかったのでしょう。

「日出処の天子」はその後「馬屋古女王」となってかなわなかった願いー毛人に愛されることーを果たします。
だがそれは結局破滅と引き換えにしか成しえないことなのだと、物語は悲しく告げるのでした。







最新の画像もっと見る

コメントを投稿