ふうてんの猫の猫耳東風的フリチベ生活

働きながら和製MBAと工学博士取得をしていた自称苦学生バックパッカーの日記。
今は学位もとって大阪で技術戦略考えてます

回天 キューピー

2010年01月21日 | 政治・経済・社会現象
批判続出 人間魚雷キューピー
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100120dde041040005000c.html

携帯ストラップ:自衛隊売店で「回天」「桜花」 「不謹慎」販売中止  太平洋戦争で旧日本海軍が使った人間魚雷「回天」や航空特攻兵器「桜花」の胴体に、キューピー人形の顔をあしらった携帯ストラップが全国の自衛隊基地内の売店などで売られていた。販売元は「不謹慎」との批判を受けて昨年12月に販売を中止、商品を自主回収した。【渡辺暢】  ◇人間魚雷・爆弾…ネットに批判続出  販売元の「シップス」(神奈川県大和市)などによると、ストラップは戦闘機の零戦など旧日本軍兵器にキューピーの顔をあしらった「旧軍コレクション」シリーズの一つで自衛隊基地の売店で1個500円で昨年秋ごろから販売。回天キューピーは「大日本帝国海軍」の帽子をかぶっている。自衛隊関係者以外も購入可能で、通信販売していた売店もあった。  回天は、魚雷を人間が搭乗できるように改造し、敵艦艇に突入して自爆する特攻兵器。訓練基地が置かれていた山口県周南市の市回天記念館によると、搭乗員や整備員ら145人が戦死した。桜花は機首に大型爆弾を搭載し、固体ロケットを噴射して敵艦に体当たりする「人間爆弾」。  昨年12月中旬、自民党の山本一太参院議員が自身のブログで「回天のキューピーちゃんは問題」と記載したことをきっかけに「不謹慎だ」「ありえない」といった批判がネット上で続出した。同社は「予想以上に批判が大きかったので、回天と桜花を自主回収した」と説明。防衛省広報課は「売店が何を売るかは関知していない」としている。  販売中止について、回天記念館の元館長、高松工(たくみ)さん(87)は「あまりに不謹慎でも問題だが、神聖視しすぎてもおかしい。大事なのはあの悲惨な事実をできるだけ多くの人に知ってほしいということ」と複雑な胸中を明かした。


ムキになって怒るほどのことでもないと思いますが、ちょうど、一年以上放置プレイしていた、回天の小説の「出口のない海」を先日、インド風邪で寝込んでいた時に読んだのです感慨深かったので、日記にしておきます。

この小説、国や愛する人を守ることと、死の現実の中を生きるという苦悩の中でいきる青年たちを描いていて、かつ、回天というものが忘れ去られたことを示唆していて、僕はとても良い小説だと思います。

その中で、同じ回天隊の後輩に主人公が語るのですが、
「俺は回天を伝えるために死のうと思う」
「勝とうが負けようが、いずれ戦争は終わる。平和な時がきっとくる。その時になって回天を知ったら、みんなどう思うだろう。なんと非人間的な兵器だといきり立つか。祖国のために魚雷に乗り込んだ俺たちの心情を憐れむか。馬鹿馬鹿しいと笑うかそれはわからないが、俺は人間魚雷という兵器がこの世に存在したことを伝えたい。俺たちの死は、人間が兵器の一部になったことの動かしがたい事実として残る。それでいい。俺はそのために死ぬ」
「俺なりの理由付けだ。自分から死ぬためには理由がいるからな」

というのが頭から離れなくてね。
特攻をしても守りたいものがある、というのは21世紀の現在においても自爆テロなどが続いていますし、自爆テロという他者を傷つけることを目的としなくても、マルクス中国で人権や民族自立を訴える活動をする人は、本当に言葉どおり命がけで、命を代償として行っているわけです。

それで、
キューピーが特攻をする 
というシチュエーションがやはりジョークにしかなっていないようで、不謹慎というか違和感を強く感じるのですよね

このキューピーをつけた人たちは、回天をはじめ特攻や、通常戦闘で死んでいった英霊のことを思ってくれるのか。
ただカッコいい格好をしたキューピーとして見るのか。

作った人に悪意はないと思うのですが、違和感はちょっと感じました

英霊には英霊にふさわしい語られ方がる。
それは美化するということでもなく死者への弔い方のありようだと思います。


戦争美化だとかいうブサヨが暴れそうなので、先に言えば、
タイタニック
という名前で水兵の格好をしたキューピーを売り出してもやっぱり不謹慎っていわれるだろうし、
ホスピス
って名前で、おじいちゃん、おばあちゃんの格好をしたキューピーを売り出してもやっぱり駄目でしょう

死を象徴するものと、マスコットキャラクターの組み合わせがNGなのだと思います
どんな死に方であろうと、死は厳格に扱われるべきだと私は思います。

人々がこの国の国土や国民を守るために、命を懸けてくれたことを語り継がねばなりませんし、若い命を特攻で失うことを躊躇しなかった国家というものの功罪について我々は真摯に考えるべきだと思います。
特攻の勇気や悲しみは永遠に語り継ぐがねばならないことですが、それは語り方にふさわしい語られ方があるべきである、というのが不謹慎だということではないかと思います。