うるる@@おっか村

2006年2月乳がん手術、6月には腹式子宮全摘手術した、
ふうママの日々暮らしと趣味と健康のブログです!

幸せへのレッスン

2006-09-22 | 癌になって思うこと
私の病気が発覚した時、友達が来て話してくれた。
自分も肺がんの疑いがあったこと。このままじゃ嫌だと、本を読みあさり、
気持ちを切り替える事を試したそうです。

『人は生まれて来る前に、自分の人生のストーリを決めてこの世に生まれてくる。
その、ストーリーの中にはいろいろ盛り上がる場面をいくつか決めてくる。
それは「試練」と言う。自分が決めてきた試練なんだから、本当は困ってない。
人はただ、自分で決めてきた試練を経験してるだけ。
試練とは本来その試練をクリアすることによって、精神的に成長して、
人生がさらに楽しく、すばらしくなる。と言うもの。
目からうろこでした。そうなんだ、なるほどって。
そして彼女は教えてくれた。『「毎日、ついてる!」を声に出して言うこと。
心の中では「ついてない」と思ってても、口から出る言葉は、どんな時も
「ついてる!」と言うこと。
どうしても、何がついてるか、思いつかない時は、
「想像もできないぐらい、ついてる!ついてる!」と言う。
でも、例えば、お葬式の席でも、「ついてる」って言いなさいって
言ってるんじゃないよ。それは常識だからわかるよね。
周りの人が聞いてて、気持ちよくなったり、うれしくなっちゃうような言葉、
そういう言葉をいつでも口から出す、訓練を」するのよ。
たとえば、喫茶店に言って、「アイスコーヒーが飲みたい」と思ってても、
「ココア」と言えばココアが出てくる。
口にしたことが現実に起きてくる。
そうすれば、どんなについてないと思うことがあっても、頭が勝手に
ついてる理由を見つけ出すようになって、不思議なことに、
本当についてる出来事が起きてくるよ。
転んでしまった時は「痛いなあ、もう、ついてない」の代わりに
「あぁ~骨まで折れてなくてよかった、ついてる、ていてる」と言う。
鳩のフンがポタっと、頭に落ちてしまった時は、
「何なの、汚いなあ。ついてない」と言うかわりに、
「あぁ~岩石が落ちてこなくてよかった。ついてる、ついてる!」と言う。』
なるほど~~私にできるかなぁ。
『大丈夫!1日1回でいいんだよう~~』 試してみるか~
彼女はこれを実行し、そのうち肺の影も消えたそうです。
そして、お気に入りの車をゲットし、自分の条件にあった仕事も手にいれました。

『「ついている。うれしい。楽しい。感謝してます。しあわせ。ありがとう。」
を声にして言う。友達や家族にできるだけの「ありがとう」を言う。
もし、あなたに嫌いな人がいたとしても、「許します」と口にする。
その人のことを考えてる時間がもったいないじゃん。』
普通、ついてない時、ついてないって、普通誰でも言いますよね。
でも、この話を聞いてすごく得した気分になりました。
ついてる!こと起きるかな?!

友達のお話3

2006-09-20 | 友達のこと
もう一人、話を聞いて下さい。
私の職場に派遣社員として受付に来た、由香ちゃん。
細身で声のトーンが高く、笑い声に特徴があった。
でも、よく気がついて気くばりのできる彼女でした。
すぐ、仲良くなって、ご飯食べに行ったり、飲みにいったり。
家に泊まって、朝までお喋りしたこともあった。
私は先に結婚し、主人の転勤を機会に退職し、北部に引っ越した。
離れてても、主人の実家のキウイの収穫にも来てくれた。
1996年、会社に出入りしていた業者さんのSさんと結婚。
よく電話で話した。「子供がなかなかできないから急かされる」と言ってた。
2001年、横浜に転勤、「お互い遠くなったね」と話してた。
「横浜のマダムにかこまれながら料理教室に通ってる」と言ってた。
新婚旅行で行ったバリ島が気にいったらしく、毎年、年1回は旅行に行ってた。
「子供が出来たら、行けなくなるし、それまで二人で楽しむわ。」
悲劇は突然やってきた。
2002年10月12日、バリ島での爆弾テロ。
テレビで日本人にも負傷者がいると、その中に行方不明の夫婦が・・・
うそ!まさか!!!!そのまさか、由香ちゃん夫婦だったのです!
なんで、同じ時期なん!?なんで、その場所なん!?衝撃的だった。
その日から日本総領事館に電話したり、新聞を何紙も読んで、
テレビも見た。友達に情報がないか聞きまわったりした。
そして、17日にご主人が、18日に由香ちゃんの死亡が確認されました。
私は由香ちゃんから実家の住所や電話番号は聞いてなかった。
岐阜で弟がいるとしか聞いてない。あせった。まさかこんなことになるとは。
横浜の住所に電話したり、手紙を書いた。「連絡して欲しい」と。
でも、結局返事は来なかった。ご両親も混乱してただろうし。
悲しみも深かっただろうから、すぐ探す事は出来なかった。
他に探す手立てもあっただろうけど、出来なかった。
信じたくなかったから。今でも後悔してる。せめてお墓に参りたい。
年賀状で微笑む彼女の写真だけが残った。

彼女たちの死を身近に体験し、私はいっぱい考えた。
出会いをもっともっと大切にしょうって。大事に考えようって。
この出会いは意味があるものなんだ。天からのなんらかのメッセージなんだと。

友達のお話し2

2006-09-18 | 友達のこと
私の天国に逝った友達の話をもう少し聞いて下さい。

2004年10月20日 府北部台風23号の犠牲者15名の中に私の友達が居た。
加代子さん・・・その3年前、私の長女(年中)と彼女の長女(年少)が
幼稚園で同じ組だった。音楽教室も一緒だった。組も一緒だったから、話はよくした。
気さくで、よく喋る楽しい人だった。私の姿を見かけると手を振って呼んでくれた。
私は引っ越して来たばかりだったから、仲良くしてもらって嬉しかった。
長男は2歳アトピーで、治療の為に夏休みは秋田まで行ってた。
お互い卒園してからは、よくJUSCOで出会った。

台風23号、すごい雨と風だった。断水、停電、荒れ狂う波。増水する川。
我が家の倉庫の屋根が飛んだ。友達の家も水につかった。
台風情報を聞いていたテレビから、「え?」と思う名前が流れてきた。
まさかと思って、年賀状をひっぱり出して見た。やっぱりそうだ彼女の名前だ!
「行方不明」の文字。うそや!!なんで!!あの川氾濫するん!!
頭はパニックに!!他の友達にも連絡をとった。残念ながら間違いなかった。
その日、彼女は仕事に行ってた。台風がひどくなってきたので、
家にいるふたりの子供のもとに帰ろうと、川の決壊で腰までつかる水の中を歩き、
その途中で流されしまった。翌日・・・彼女は発見された。

お通夜に行った。寒い夜だった。子供も連れて行った。
少し早く行ったので、彼女の子供が気ずいてくれた。子供同士出会えた。
無邪気な子供たちを見て、切なさが増してきた。なんでこんなことに!!
ご主人に私が名前を言うと、「妻から話は良く聞いてました。
仲良くして頂きありがとうございました。」目は真っ赤だった。
「無謀だったかもしれない、それが母親なのかも知れない」夫は語った。
突然、逝ってしまった彼女。。ほんとにほんとに無念だったことでしょう。
ご主人は子供たちの為にもこの土地で頑張ると言っていました。
あれから2年、台風の時期が来るたびあの時のことを思い出します。

彼女の冥福とやすらかでいられますように祈ってます。




友達のお話1

2006-09-17 | 友達のこと
2006年1月5日、地元のお友達が癌で亡くなった、Mさん38歳。
私の次女と幼稚園の同級生。クリスマス会や餅つき、オベレッタ、
卒園式や小学校の入学式を迎えることなく、無念の死だったと思う。

でも、そんなことは感じさせない位、いつも笑顔で積極的で頑張りやだった。
3年前、年少で私と彼女の次女が入園し、年少さんの会で仲良くなった。
私もPTAの役員になって、交通安全教室や各行事でよく会うようになった。
病名は言わないけど「病気で通院してるんや、ようやく薬だけですむようになった」
と言ってた。時々ランチしたり、私の悩みも聞いてもらってた。
子供が年長になって、お互い卒園時のアルバム委員になった。
彼女は役員も引き受けた。病気なのに大丈夫かな?と思ってた。
彼女は夏前に腸閉塞で入院した。お見舞いに行ったその時も、
「せっかく来てくれたのにごめん、痛くて喋るの辛いんや」と話した。
そんな事気にしなくていいのに。。自分のことより、周りのことを気に掛けていた人。

2005年10月、私の体調が良くない時も「しんどいの?大丈夫?」
て声かけてくれた。自分のほうが重病だったのに・・・?!
彼女はその頃、大腸がんで転移の為、片肺がないことを話してくれた。
「階段上るのしんどいんや」 その頃病状は進んでいたそうです。
12月彼女は入院した。今までも1泊2日で治療をしてたからそうかなと思ってた。
一度家に帰ってきて、そのあと家で倒れて、救急車で運ばれたて聞いた。
集中治療室に入院、面会謝絶。癌が脳に転移していたそうです。
家族がいるときなら会えるかも知れない、1月5日に検査で病院に行くから、
そのとき、行ってみようと思ってた。
その日の朝。。。メールが来て知った、彼女が亡くなったこと。
遅かった・・・もっと早く行くべきだった。今でも後悔している。

1月6日雪の降る中のお通夜。沢山の人だった。彼女は沢山の人に愛されていた。
ご主人が「顔見てやって下さい。妻も喜びます」私は彼女に会った、
目は閉じていたが微笑んでいるように見えた。涙があふれて大声で泣いた。
ご主人が挨拶の時、涙をこらえて話した。
「病気がわかった時、余命を知らされてました。その余命より長く生きられました。
特に幼稚園のお友達と仲良くして頂き、役員もしてきたおかげで、
妻は充実した日々を過ごすことができました。ありがとうございました。」
最後は苦しむことなく安らかだったそうです。
Mさん、もっともっと話をしたかった。もっと仲良くしたかった。
アルバムのお手伝い出来ない事を気にしていたそうです。
3人子供がいる彼女。「次女がまだ幼稚園児だから、大きくなっても私のこと
覚えてるかな」と言ったことが忘れられない。
子供達はお母さんの事ずっと覚えてるよ!絶対忘れないよ!
私もあなたのことは忘れないよ。



退院日

2006-09-15 | 乳がん
2月10日、退院日。
朝早く、O医師が病室に来た。
「今から京都に行ってくるから、また来週予約取ったし来て下さい。」
そう言って、足早に去って行った。先生がいないのは寂しいけど仕方ない。
律儀な先生は入院中は必ず、1度は顔出してくれる。
どの患者に対してもそうだ。だから、患者からの信頼度は高い。

11時、主人が来た。同室の患者さんに挨拶をして、
荷物を持ってナースステーションに。主人に荷物が増えてるって文句をいわれた。
お世話になった看護師さんに挨拶をする。あっ、婦長はいない。
みんな忙しそうで・・・あんまり挨拶してくれない。
あれ?ドラマでやってたような、お見送りはないんだ。そっかー
「ナースのお仕事」とちがう~~退院って、こんなもんなんだ。
そう思いながら、支払いを済ませ家に帰った。

久しぶりの我が家、賑やかな毎日がまた、帰ってくる。
でも、病気のことはこれから、明日から新たなスタートが始まる。

術後8日目

2006-09-14 | 乳がん
2月9日、術後8日目。体も回復してきた。
早く外に出い気分だった。同室のおばあちゃんは昨日夜帰られた。
また、外来で会えるといいな。
今日は新しい患者さん。1泊2日で抗がん剤の投与に来た。
抗がん剤が始まってから、免疫力が弱くなって風邪を引きやすくなったと話していた。
まだ、風邪が治らないて。仕事もしているそうだ。
そう言えば、術後5日で退院した人もいたな。仕事があるからって抜糸してすぐ帰った。
私はまだまだ弱いな。。。

お昼ご飯を取に行って、病室に戻ろうとしたら、
ナースステーションにいたO医師と、目があった。『なに?』
O医師「○○さ~ん!今からお昼ご飯?悪いんだけど、僕今しか時間ないから、
 リンパ液抜かせて~~」と私の後ろを注射器を持って、ついて来た。
私「え~~今からですか~~食べた後じゃだめなの?」
O医師「ほんと時間ないんだ。ごめん、すぐ終わるし。その後にゆっくりご飯食べて。」
仕方なく、抜いてもらった。針を刺しても、チクッとするだけで、そんなに痛くない。
O医師は自分でも「上手でしょ」と言うくらいだから、お上手。
すごく張ってたから、すっきりしたよ!

明日、いよいよ退院!荷物をごそごそ整理し始める。
お見舞いのお花が3かご。廊下に2かご出した。
他の患者さんが「きれいな花やね。花があると心が和むわ」と言ってくれた。
うれしかった。せっせと水やりしたり、枯れた花を他のかごから
入れ替えたりして、2かごにした。
入院中のことを振りかえってみた。もっと病室から出て、食堂とかに行って、
お友達作ればよかったな。と、ちょっと後悔。


術後7日目

2006-09-11 | 乳がん
2月8日、術後7日目。
婦長が来る「○○さん、いつ退院されますか?」 ついに来た肩たたき!?
予想外のこの大雪で転んで骨折&怪我をした人で入院患者が増えて、
ベットのやりくりが大変らしい。(患者内でのうわさ)
あと、1泊2日や2泊3日で抗がん剤の治療に来る人もいるので。
私「10日にと思ってるんですけど・・・(-_-;)」
ほんとは13日まで居たいんだけど、とても言える雰囲気じゃない。
O医師にいつでも退院できると言われてるから・・・
婦長「そうですか・・もう一日早くなりませんよね」
私「すみません、9日は主人が仕事なんで迎えに来られないんです」
婦長、残念そうに退室。
薬のおかげか今日は胃の痛みがマシになった。となると退屈になってきた。
洗濯物がたまってるから洗濯室に行くことに。売店にも行きたいな。
行く途中にO医師に出会う、(回診の途中らしい)(^o^)丿
ニコニコしながら「おっ!洗濯するんか、元気になってきたやん」
私がずっと部屋にこもっていたから、先生心配してくれてたんかな?
私「はい、おかげさまで」先生の笑顔と声に癒される。
しばらくして、O医師が回診に来た。
私はリンパの液がたまって乳房が痛いことを話す。すごく張った感じがする。
傷口の一部も膿が出て、治りが遅いようだ。
「退院までに、1回抜かなあかんな。吸収悪いなあ。。ここは治りにくい所なんや。
 そうそう退院する日、10日に決めたんやて。
 あっ、第二金曜か・・・ごめん、いないわ。月に1回、市内で診察してるんや。
 退院の日にいなくて、ごめん。病理の結果は退院後になると思うし、
 来週に予約は取っておくから。いつも忙しくしてて、いなくてごめん。」
私「なんや、先生いないんか・・・先生忙しすぎ!後のことちゃんとしてや」
そうだ、肝心の結果がまだ出ていない、これからの私の向かうべき方向が決まるのに。
結果がでる間、ドキドキ。何をいわれるか怖い。
相変わらず寝られないので、深夜、病棟をウロウロ。
レンドルミン様を頼りに眠る、今夜も長い夜です。



術後6日目

2006-09-11 | 乳がん
2月7日、術後6日目。朝ご飯の後、牛乳を一口飲んだ後、
私「ん?なんかムカムカする、胃が痛い?ええ~~気分悪い。」
今日の看護師は男性、今風の20代後半?「胃が痛いの?先生に言っとくね。」
いつもながら軽い感じ。「お願いしま~す」ず~とチクチク痛みが続く。
O医師が来た。私「先生、気持ち悪い」
「大丈夫か?!(なぜか半分笑顔)乳がんになって、心配事や不安な気持ちが続くと、
胃が痛くなるんや。一日で胃に穴があく人もいるんやから。
ガスター出しとくし、飲んでみて。また、様子見に来るから」
そっかー自分では、全部受け入れたつもりだったけど、体は正直やな・・   
                         
4人部屋の同室の人は、2人は整形の患者さん(おばあちゃん)、
もう一人は2泊3日で抗がん剤の治療をしに来たおばあちゃん。
話をしたら、2年前に乳がんになって、その後ご主人が脳梗塞で倒れて、
看病してる間は治療ができなくて、転移、再発がんで今治療してるそうだ。
私はこのおばあちゃんに何度か励まされ、笑顔に癒された。

今日のリハビリプログラム、(術後7日目)←退院予定日と書いてあった。
①棒体操 1、棒の上げ下げ 2、頭の後ろで上げ下げ 
3、斜めに上げ下げ 4、背中を拭くように斜めに上げ下げ 
5、背中の後ろで上げ下げ 6、背中の後ろで左右に 
②伝い歩き運動 手術した方の腕をロープを伝いながら歩きます。

今日は主人がお見舞いに来た。差し入れのプリンは今日は胃が痛くて
食べれませんから~~残念!←(あの人は今どこに?)
毎日雪かきが大変なんだって。ご苦労様です。ありがとう♪

術後4・5日目

2006-09-08 | 乳がん
2月5日術後4日目、今日は日曜日リハの先生はお休みなので、自主リハビリ。
術後4~6日目、リハビリ室にて ①つるべ運動(ロープ牽引運動)
②羽ばたき運動 ③背中ふき運動

まだ個室、看護師から「多分、月曜日には大部屋に代わってもらうと思う」
食堂には行かず、部屋でご飯を食べる。この頃は一人が気楽だった。
人に会うのがなぜか怖かった。いろいろ考え事してた。
お見舞いは幼稚園のお友達のTさんがお花を、京都からYさん本がとお菓子。

2月6日術後5日目、朝、O医師が来て「今日抜糸するから。ドレーンも抜くよ。」
私「え?もう抜くんですか?心配なんですけど!?」
O医師「あまりドレーンを長く入れておくと穴ふさがっちゃうし。
それに、液は体に吸収されちゃうし、大丈夫。」
私「ええ~~それは困ります。わかりました。」
O医師「これで、いつでも退院できるよ。」と笑顔。
私「まだ、ここにいます。もう少しゆっくりしたいし。」
10時、外科の院長回診、ベットの足元に院長が立ってて(やや小さいおっちゃん)
周りをO医師と看護師が囲む。『白い巨塔みたいや』
O医師が乳房の傷口の糸をバチンバチンと切って、看護師が傷の跡を茶色のテープを
張って行く。脇の傷も同様に。脇の傷はケロイドになってて、痛いのだ。
次はドレーン、ゆっくり抜いて、はい、おしまい。
私「え?処置ないの?テープだけ?」
O医師「そうだよ。自然にくっつくから。」『うっそー、縫うのかと思ってた』
看護師「テープ渡しておくから、はがれたらまた張ってね」『自分でするんか』
そのあと婦長が来て、『来た来た』「悪いけど、手術の人がいるので、
昼からお部屋代わって下さいね。あなたが入院する時もこうして代わって
もらったんだから、順番ですよ。」きつい言い方、一言多い。わかってますよだ。

夜、O医師が来たカーテン開けて「ここにいたんか、ついに出されたんやな。
今日当直やし、なんかあっても大丈夫やで。」
私「当直なんかあるんですか?しんどいですね。」
O医師「そうや、当直して、翌日手術があって、診察してて、フラフラやで、
○○さん、よかったな、そんな日に手術当らんで。だから日ごろから鍛えてるんや。」
私「外科医は体力勝負ですね。」

就寝後、今日のレン様が届かないので、ナースステーションに取に行く。
看護師「あれ、寝れない時だけじゃないの?」いえいえ、ずっと寝れません。




術後2・3日目

2006-09-08 | 乳がん
2月3日、術後2日目、今日も雪景色。熱も下がり、回復してるんだなあと感じた。
まだ点滴。でも、そろそろ私の血管はピークだ。
O医師は忙しくても、一日一回は病室に顔を出してくれる。ありがたい。
私は精神的に弱いことを見抜かれているので、あれこれ励ましてくれる。
今日のリハビリのプログラム(術後2・3日目)は、
病室に先生(理学療法士)が来てくれての指導。
①肩の持ち上げ運動 ②壁のぼり運動 ③耳タッチ・背中タッチ
なんせO医師から「ちゃんとリハビリしないと脇がかちかちになっちゃうよ!」
と言われたので、弱音を吐いたら叱られる。やさしいけど、治療に関しては厳しい。
傷口はクロスしている部分が治りにくい感じで、よくあることのようでした。

2月4日、術後3日目、
もう、点滴が入らなくなってきた。点滴が落ちないのだ。痛い。
血管がない。いや、あるのだけど、奥のほうでわかりにくい。←看護師の話
点滴は今日のお昼で終わりにして、あとは飲み薬にかえることに。
点滴が終わったら、シャワーをつかえることになった。
うれしい~~♪でも、この傷大丈夫なん?このドレーンの袋どうするん?
悩みながら、シャワー室に行ったら、袋を置く台のようなものがあって、
そこに袋を置いた。よく置いてるの忘れてそのまま出ようとして、引っ張られた。
危ない危ない。
左脇からのリンパ液を貯める袋は首からかける布製の袋に入れるんだけど、
寝てるとき、寝返りうつ時に体の下敷きにならないか、
首に紐が巻きつかないか気になってしまった。(私だけ?)
今日はYさんが来てくれた。「元気そうやん」「うん、いろいろありがとう」
お見舞いは『美味しいと評判のパン屋さんのデニッシュ』とお菓子と本。
このYさんは○○科の医師の奥さんであり、看護師であり、
以前同じ市に住んでいて、同じ幼稚園に通っていたことがあり、
パン教室のお仲間でもある、私にとって頼もしい存在でもある人。
私のことを心配してくれてO医師にも、様子を尋ねたそうです。
でも、守秘義務があるから教えてはくれなかったそうだけど。

今日は家族でお見舞いに来てくれた。平日は幼稚園や学校があるから、
休みの日にしか会えない子供たち。久しぶりににぎやかだった。
夜になって、また頻繁に救急車が入ってくる。雪はまだ降ってた。
外はまだ、寒いんだろうな。今日もやっぱりレン様でおやすみなさい。