福乃丸おじさんの遠足

福乃丸が飽きるまでちょこっと城めぐり!

熊本城

2022-11-16 16:19:24 | 城めぐり

10月26日 熊本市にある熊本城は震災の被害が大きく天守は見ることが出来たが、城内には崩落した石垣の石が並んび、修復作業のプレハブやクレーンなどがあり、歩ける場所は制限されていました。

熊本城  別名「銀杏城」

慶応6年(1601)室町時代に築かれた千葉城や隈本城のあった茶臼山一帯に加藤清正が築城、慶応12年(1607)に完成した。本丸には大天守や小天守を建て各曲輪には宇土櫓をはじめ三重天守に匹敵する五階櫓を5基も建て並べた。加藤氏改易後は細川氏が入り明治維新を迎えた。明治10年(1877)の西南戦争では本丸の大部分が焼失したが、立てこもった新政府軍を西郷軍が攻めたが落城出来なかった。なお宇土櫓をはじめ12基の櫓や清正流と称される石垣も完全なかたちで残った。大天守と小天守は昭和35年(1960)に鉄筋コンクリートで再建され、のちに西出丸の櫓や門が復元され、平成20年には本丸御殿の復元も完成した。しかし2016年4月14日の熊本地震により石垣の数か所が崩落し、長塀が100mに渡り倒壊し、天守櫓の屋根瓦や鯱も落下してしまった。現在は復元修復工事が行われている。

大天守 令和3年(2021)春に天守閣の復旧が完了。地下1階地上6階の内部が一新されて展示。

本丸御殿大広間(闇り通路)全国的にも珍しい地下通路

ダンパーを供えた耐震補強

内部展示 1階~2階(加藤時代~細川時代)3階~4階(近代~現代)5階(通路)

6階(展望フロア)

大天守(右)小天守(左)宇土櫓(中)

二様の石垣

戌亥櫓は再建中

西大手櫓門  

未申櫓

数寄屋丸二階御広間 (今も石垣が一部崩れている)

熊本城全体の復旧は天守閣や長塀など、まだ2~3割程度が終わった程度で復旧が完了するのは2037年頃とされています。

 

 

 


島原城

2022-11-12 15:40:08 | 城めぐり

10月25日 長崎県島原市にある。

島原城 別名「森岳城」

元和4年(1618)に松倉重政が島原城の築城を開始したが、築城のための課役、キリシタンの弾圧、過酷な年貢などが要因となり農民たちが天草・島原の一揆を起こした。一揆は鎮圧されたが責任をとらされ松倉氏は断絶した。その後、城には高力氏、松平氏などが入り五重五階の天守を中心に3基の三重櫓が建ち平櫓は33基あった。明治になり建物は壊されてしまったが、昭和35年に西三重櫓、昭和39年天守、その後、巽三重櫓、丑寅三重櫓が再建された。

天守閣 今回は残念ながら天守閣外壁改修工事のため天守を見ることが出来ませんでした。(工事期間は2022年7月4日~2023年2月28日予定)

天守内部は見学できる様なので写真を撮ってきました。

1階はキリシタン展で島原の乱などの資料が展示してあります。

2階は松平家の鎧や島原城関係の文物を展示。

3階は庶民が使っていた生活用品の展示。

4階は物産コーナー、5階は展望所などは工事のため行けませんでした。

巽の櫓(西望記念館)

丑寅の櫓

三階の展望から熊本が見える。

西の櫓

 

 

 

 


平戸城

2022-11-08 07:36:47 | 城めぐり

10月25日

平戸城 長崎県平戸市にある。別名「亀岡城・日の岳城」

慶長4年(1599)松浦鎮信は日の岳城を築いた。しかし徳川家康は豊臣秀吉と親交が深かった松浦家に疑いの目が向けられたため、疑いを払うため城を焼却、平戸6万1700石と民を守った。以後、城は築かれなかったが元禄元年(1704)松浦棟の時、新規築城が幕府より願いが許され享保3年(1718)日の岳城跡に平戸城が完成した。その後、明治4年(1871)廃藩置県により廃城し北虎口門・狸櫓を残して取り壊された。

天守 昭和37年本丸北東隅に三重五階の模擬天守が建造された。

城内は映像を使った体験型のアミューズメントになっており、クイズに答えながら歴史が学べるようになっている。

天守最上階から平戸島を結ぶ平戸大橋が見える。

見奏櫓

狸櫓

北虎口門

地蔵坂櫓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


名護屋城

2022-11-06 08:11:36 | 城めぐり

10月24日 

名護屋城

天下統一を果たした豊臣秀吉は、大陸出兵を目指すようになった。その足がかリとして朝鮮半島に近い東松浦半島北端に築かれたのが名護屋城である。波戸岬の丘陵を中心に17万㎡に渡り築かれた平山城である。五重天守や御殿が建てられ、城の周囲には戦いに集まった大名たちの陣屋がおかれ、一時は「京をしのぐ」賑わいであったと言う。秀吉の死後は戦いは終結し、名護屋城は廃城となった。現在の城跡は各曲輪を巡る石垣が残る。

大手口 城の正面玄関口で右手に大規模な櫓台があり、ここから南に向かって唐津に通じる「太閤道」と呼ばれる道がのびている。

太閤道

東出丸 城の東側の警護を行っている場所

ここから呼子大橋が見える

三の丸 大手口から本丸に通じる重要な曲輪で本丸周辺を警固する侍が詰めていた所。

本丸大手門 三の丸から本丸への入口に二層の豪壮な門が築かれていた。

本丸 本丸の広さは東西130m南北125m、この西北の隅に天守が置かれていた。

青木月斗句碑

天守台 玄界灘の眺望は素晴らしく壱岐・対馬も望見出来る。

二ノ丸 本丸の西側にあり武器、兵糧などを納めた建物があったといわれている。

遊撃丸 文禄2年(1593)に明国から講和使節として来日した沈維敬(遊撃将軍)の宿舎となったことから、この名前が付けられたと言われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


佐賀城

2022-11-05 08:04:14 | 城めぐり

10月24日 

佐賀城  別名【栄城・沈み城・亀甲城】

慶長13年(1608)戦国大名龍造寺氏の名城であった村中城を、鍋島直茂・勝茂父子が拡張して築造した。四周を幅の広い堀で囲まれた典型的な平城で、城内には本丸・二ノ丸・三の丸・西の丸のほか家臣たちの屋敷地も配された。享保11年(1726)と天保6年(1835)に大きな火災にあいましたが、その後10代藩主鍋島直正が再建に着手し本丸御殿を建築した。明治以降も様々な施設として利用されましたが、昭和32年(1957)までに鯱の門を除いて解体されました。平成16年に本丸御殿の一部が木造復元され、佐賀城本丸歴史館として開館した。

鯱の門・続櫓 天保9年(1838)に建立された。屋根の両端に青銅製の鯱が載ることから「鯱の門」と呼ばれている。

鍋島直正公の像(10代藩主)

佐賀城本丸歴史館と鯱の門

島義勇(しまよしたけ)生誕200年特別展の開催中でした。

天守台 天守閣は享保11年(1726)に焼失し、以降再建されなかった。

西門

西側土塁石垣 外側は石垣、内側は土塁になっている。

建物平面表示 かつてあった建物の輪郭などの平面表示。