深堀大三郎の生涯マナビスト

自然や街を歩いて観察するのが大好き、歩いて歩いて楽しみたい。
また、お城の石垣を眺めると力が湧いてくる。

「いいこと探し旅(27)”ちょっと休憩、安倍王子神社”」

2008-12-21 06:34:37 | Weblog
熊野九十九王子の一つ、安倍王子神社は阿倍野区にある。
阪堺電車上町線の東天下茶屋駅から歩いて10分もかからない。
熊野九十九王子とは、熊野参詣道にあるもので、京都から和歌山の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)に至るまでの道筋に、何行苦行の信仰の道をつなぐために設けられた神社と言うことである。
九十九王子は、実際の数ではなく多くのと言う意味らしい。百は、熊野三山をさすと言う。その一つの「安倍王子神社」である。
自分の仕事とダブらせるわけではないが、このあたりの街を歩き回った後の絶好の休憩場所でもある。心の安静と勇気を与えてくれる。
写真は、安倍王子神社。

「いいこと探し旅(26)”竪穴(たてあな)住居跡もあるよ”

2008-12-20 05:23:55 | Weblog
先に紹介した「旧田中家の鋳物工場」と同じ場所に、弥生時代の「竪穴住居」が復元されてある。
これは、枚方市の「田口山(たのくちやま)遺跡」で発見されたものを移したものと言う。
大体この地域は丘陵になっていて、確かに人が住んでいたと考えても不思議ではない。
写真の外観は、いろいろな資料から推定して復元されたものと思うが、感動したのは内部の様子だ。これが特別に見れるようにしてある。
住居に使われていた木材の燃え残りなど、地面から切り取って移設してある。地面から掘り下げた壁、周溝など当時のままが見学できる。
多分、

「いいこと探し旅(25)”江戸時代の鋳物工場”」

2008-12-19 04:40:46 | Weblog
昔の人の生活に欠かせない道具、「かま」「なべ」「すき」など、どんなにして作られていたのだろうと興味がわくと思う。
特に、「つりがね」のようなものは、どんなところで、どんなにして・・・等々。
今から、250年以上も前に枚方村(現在の枚方市枚方上之町)で鋳物業を営んでいた「鋳物師田中家」の工場が、王仁博士の眠る「王仁公園」内に保存されている。
江戸時代の鋳物工場として残っているのは、全国で唯一だと言う。
「踏鞴(たたら)」「こしき炉(溶解炉)」など現物を見ることができる。
大阪府の指定文化財となっているが、入館料は無料。
場所は、JR学研都市線「藤阪駅」下車徒歩7分。(写真は、「旧田中家」)
多分

「いいこと探し旅(24)”元気なチンチン電車”」

2008-12-18 06:58:38 | Weblog
大阪の街をよく歩き回ることが多いと、楽しいこともたくさんある。
その一つが、チンチン電車に乗ることである。
天王寺駅前から出ている阪堺電車。堺まで行っているようである。
一両だけであるが、頻繁に来るので便利。待つのも苦にならない。
昼間は、学生さんや沿線の住民も随分と利用しているみたい。
衰退事業のように言われているが、公害も出さず元気いっぱい走っている。
思い出すのは、長崎市内のチンチン電車。
市内観光もこれを利用するのが一番だ。勿論、通勤も・・・。
100円で、黒字を出していると言うから、長崎ではなくてはならないものの一つだろう。
「いいものは良い」(写真は阪堺電車、東天下茶屋駅で)

「いいこと探し旅(23)”大阪太融寺にもあった十三重石塔”

2008-12-17 06:25:49 | Weblog
いろいろなところをまわっていると、思わぬ発見をするものである。
それが又楽しい。
発見と言うと大げさだか、一種の気づきと言う程度と考えてよい。
大阪北区に太融寺というお寺がある。
街のど真ん中のビルの谷間に存在するが、淀君の祠もあって有名なところでる。
そこに、自分の近所にある正俊寺の十三重石塔と瓜二つのものがあったので撮って帰った。この太融寺のものは調べていないので分らないが、正俊寺のものは大阪府の重要文化財になっている。その十三の一つ一つにはそれぞれ違った意味の祈りがあるというから、又ゆっくり太融寺の十三重石塔についても調べる楽しみができた。
仕事と一緒に、一つの楽しみを持つことも満更ではないと思っている。
(写真は太融寺の十三重石塔)
多分、

「いいこと探し旅(22)”馬車鉄道”」

2008-12-16 05:34:30 | Weblog
天王寺駅前から住吉或いは我孫子道行きのちんちん電車が走っている。阪堺電車上町線である。
その「東天下茶屋駅」の片隅に「馬車鉄道跡」の碑が立っている。
この馬車鉄道は、明治33年(1900)、天王寺西門前から東天下茶屋間に開通した。これは、軌道上の客車を馬車にひかせた鉄道である。馬車を操る人を「ベット」(別当)といい、当時、尻取り歌にも”走るはベット、ベットは偉い・・・”と歌われたそうだ。
約10年間だけではあるが、鉄道の発展状況を偲ぶことができる。ただ、マーケティングの神様、セオドア・レビットの「マーケティング近視眼」の鉄道事業に関する考えによる発展をしてたなら、現状とは大きく違ったものになっていたかもしれない。
いろいろなことを勉強させてくれる碑である。
多分、

「いいこと探し旅(21)”玉ノミウヂ御嶽”」

2008-12-15 05:07:07 | Weblog
孤高のグスク勝連の頂上は、約200坪ぐらいだろうか。
しかし、その360度の眺望は雄大である。
勝連全域を一望のもとに見下ろし、しかも沖縄本島全体をも眺めることができるのではと感じた。
さほど広くはない本丸の中心部に「玉ノミウヂ御嶽(うたき)」と説明のある不思議な丸い石があった。
多分この霊石は、肝高の阿摩和利が天下をねらって祈ったところかもしれない。建物の礎石だとも言われているようだが、それだけではないものを感じる。
その霊石の根元にポッカリと穴が開いている。
どこかへ通じていたものだろうか。外部への抜け穴だったのだろうか。全く不思議な穴である。(写真は「玉ノミウヂ御嶽」)

「いいこと探し旅(20)”孤高の城(グスク)”」

2008-12-14 06:49:24 | Weblog
2008/12/13/日経夕刊/「あすへの話題」関連。
沖縄の勝連グスクを舞台にしている芸能が紹介されていた。その他の地域でも多彩で素朴な芸能が息づいていると言う。
勝連(かつれん・カッチン)の城主は、阿摩和利(あまわり)と言う。肝高(きむたか)と言う言葉で、すなわち、気高い勝連と阿摩和利と今でもたたえられているところである。
自分は、昨年1月14日(日曜日)仕事の合い間を利用してこの勝連グスク(グシク)を訪れることができた。
実に、孤高のグスクと言われるくらい見上げる城壁に感動を禁じえなかった。あたりの山一帯が勝連グスクだったとのことに、当時の壮大さにうたれたものである。
写真は勝連グスクの本丸付近を写したもの。
多分

「いいこと探し旅(19)”千字文(せんじもん)”」

2008-12-13 07:06:35 | Weblog
JR学研都市線長尾駅から約1kmのところにある王仁(わに)墓には、千字文の原文の写真も展示している。
「千字文」は、子どもに漢字を教えるために用いた漢文の長詩である。
1000の異なった文字が使われていると言う。
日本で言えば、「いろは」のようなものであろう。
これを王仁博士が「論語」10巻と共に、日本に伝えたと「古事記」にあるという。
構成として、「天地玄黄」に始まり、「焉哉乎也」にいたる四文字一句とする250個の短句からなっている詩文と言われているが、自分には残念だが全く読めない。
写真は「千字文」である。
まあまあの

「いいとこ探し旅(18)”大阪府史跡・伝・王仁墓”」

2008-12-12 06:16:21 | Weblog
JR学研都市線長尾駅から約1kmの王仁(わに)公園入り口付近にある。
現在は紅葉、夏はむくげの花が迎えてくれる。
古事記によると王仁(わに)博士は、古墳時代前期の四世紀末に朝鮮半島の百済国から渡来し、「論語」10巻、「千字文」1巻をもたらし、古代から学問の祖とされて来た。
京都の儒学者・並川誠所が、墓が藤阪御墓谷にあることを知りこの地を調査して、現在の自然石を発見したと言う。近所の人たちによって懇ろに祀られている。
時々祖国韓国から訪れる人たちも見られる。なお、「むくげの花」は韓国の国花である。
1938年(昭和13年)史跡に指定された。
多分