それは、特に気にすることもないくらいの、些細な違和感だったのである。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまれした」
ダイニングキッチンに、ふたつの声が重なった。
箸を置き、椅子の背もたれに身体を預ける。
もう入らない。
さすがに食べすぎた。
対面で立ち上がったシルファちゃんが、少しだけ呆れた顔をしている。
いくらなんでも、大皿いっぱいの麻婆豆腐を平らげるのは無理があったかもしれない。
「よく食べたれすね」
「いやあ、すごくおいしかったからさ」
たしかに満腹を通りすぎた感はあるものの、満足度はそれ以上だ。
シルファちゃんが作ってくれる料理は、どれもこれも美味しいが、その中でも今日の麻婆豆腐は格別だった。途中から取り分けるのがもどかしくなり、大皿から直接れんげですくっていたのだから、我ながら食い意地が張っていると思う。
理由は簡単で、ちょうど今日が「無性に麻婆豆腐が食べたい日」だったのだ。同様に「無性にカレーが食べたい日」や「無性に肉が食べたい日」があるのは、ここで改めて言うまでもないだろう。こうやって食べたいときに食べたいものを出してくれるのは、生活のペースが噛み合っている証拠なのかもしれない。
「れも、あんなふうに食べてもらえるとシルファも嬉しいれす」
メイド服姿のシルファちゃんは、嬉しそうな笑みを浮かべ、茶碗と皿を重ねて流しまで持っていく。軽快な足取りに合わせて、トレードマークのおさげがふりふりと揺れていた。
……うーむ。
やっぱり、少しおかしい、気がする。
帰宅してからずっと感じていた。
なにを感じていたかというと、シルファちゃんが妙に上機嫌なのだ。
人目、というか俺の目をはばからずに鼻歌交じりで洗い物をしているし、今も素直に「嬉しい」と言っていた。あそこは、あまのじゃくなシルファちゃんだったら「食べすぎて醜い豚にならないよう気をつけるれすよ」とか言うところじゃないだろうか。
べつに俺の見方が偏っているわけではなく、嬉しくても照れ隠しにそういうふうに言っちゃうのだ。シルファちゃんってコは。
「ご主人様」
「な、なに?」
急に声をかけられてびくっとした。
まさか背中を観察しているのがバレたわけではあるまいが、後ろめたいところのある人間の反応なんてこんなもんである。
「洗い物はシルファがしておくのれ、部屋にもろってていいれすよ」
振り向くことなく、手を休めることなく、シルファちゃんが言う。
やはり少し声が弾んでいた。聞き間違いではないと思う。
俺が学園に行ってる間になにかあったのだろうか。
訊ねてみるのが正解なのか、それとも訊ねないのが正解なのか。
「……うん。じゃあよろしくね」
「はいれす」
ひとしきり頭を巡らして、まあこれなら問題はないだろう、と結論づけた。
不機嫌だったら困りものだが、上機嫌なら大歓迎だ。笑う門には福来たる、なんて言葉もある。きっと朝の番組でお得情報を見たとか、昼のドラマが面白かったとか、そんな感じのちょっといいことがあったに違いない。
ベルトを穴ふたつぶん緩め、立ち上がる。
一度だけハミングを続けるシルファちゃんの後ろ姿を振り返り、のろのろとキッチンを出た。
廊下の途中で洗面台を覗くと、すでに風呂釜のスイッチが入っている。洗濯機の中は空っぽなので、昼間のうちにこのへんの仕事は済ませてしまったのだろう。
階段をのぼりながら、こんなに楽させてもらっていいんだろうか、と心の底から思う。
雄二あたりはべつの理由で熱望していそうだが、メイドロボを欲しがる気持ちはめちゃくちゃ理解できる。来栖川のメイドロボの優秀さは異常。毎日こうやって実感していると、否応なしに思い知らされる気分だ。
階段をのぼりきり、部屋のドアノブに手をかけ、
「……それにシルファちゃんは普通のメイドロボじゃないしなあ」
こうしてたまに口に出さないと、メイドロボであることを忘れてしまうメイドロボ。
それはもはや、メイドロボと言っていいのかどうか俺には判別できない。
部屋に入り、蛍光灯をつけ、後ろ手にドアを閉める。
がしがしと頭を掻きながら机まで歩き、椅子に座ろうと手を伸ばしかけ、思い直してあおむけにベッドに倒れ込んだ。
「おわ」
ぼふ、という音と共に、想像していたよりも身体が深く沈んで焦る。圧縮されていた空気が外に逃げ、太陽の香りが鼻先をくすぐった。どうやらシルファちゃんは布団まで干しておいてくれたらしい。
上半身だけ起こし、ふと枕元のカレンダーを見やる。
頭の中で自然と、シルファちゃんがうちにやってきてからの日数を数えて、思いのほか短いことに驚いた。
よく言えば馴染んでいる。シルファちゃんが。
悪く言えば堕落している。俺が。
ぶっちゃけ、今となってはシルファちゃんのいない生活は考えられない。明日からひとり暮らしに戻れと言われても、はいそうですか、と受け容れられる自信がない。
レトルト生活に逆戻りとか、家事をするのが億劫だとか、そういうこと以上に、
シルファちゃんがいなくなったら寂しくなるんじゃないかなあ、と思ってしまうのだ。
親父とお袋が海外に行くと聞いたときは開放感すらあったし、両親のいない寂しさなんて一度たりとも感じたことがないというのに、まったくもって我ながら現金なものである。
「うーん」
なんだか自分で考えて、妙に恥ずかしくなってしまった。
勝手に想像して寂しいとか、なにを考えてるんだ、俺は。
独り言めいた呻きは、照れ隠しでもある。
気持ちを切り替えるために漫画でも読もうと思い、立ち上がろうとして、
「――ご主人様?」
控え目な声と、控え目なノックの音が聞こえた。
「シルファちゃん?」
聞き返してから、そりゃそうだと首を左右に振る。
うちには俺の他にシルファちゃんしかいないし、俺のことをご主人様と呼ぶのはシルファちゃんだけだ。
「はいれす。ちょっとよろしいれすか?」
「うん、どうぞ」
腰を上げるタイミングを逸してしまい、ベッドに座り直す。
ゆっくりとドアが開き、姿を現したシルファちゃんは、お盆を抱えてむにむにと口を動かしていた。あちこちが緩んでしまうのを必死で堪えているような顔だ。
「どうしたの?」
なんとなくこっちから話を切り出して欲しそうだったので訊ねてみる。
俺の質問には、さっき聞きそびれた『浮かれている理由』を知りたい気持ちも滲んでいたのだが、それを知ってか知らずか、
「実は今日、買い物に行ってきたのれす」
よくぞ聞いてくれたと言わんばかりの表情を浮かべ、シルファちゃんは鼻を膨らませた。
「買い物って、スーパーに?」
「スーパーにも行ったれすけろ、べつのとこにも行ったのれす」
「はあ」
なにを言おうとしているのかピンとこないので、曖昧な相づちを打った。
シルファちゃんは俺が頭に疑問符を浮かべているのを見ると、ますます満足げな顔をして近づいてくる。
「この前テレビれ紹介されてたのれすが、商店街の方においしい紅茶の店がれきたのれす」
シルファちゃんは、ちょうど椅子の手前で立ち止まり、
「奥さまをはじめ、幅広い年齢層に人気の店なのれす」
ナレーションをそのまま読み上げたような解説を交えながら、印籠をかざすお付きの人みたいにお盆を前に差し出し、
「なんとこれはその店れ一番人気の紅茶なのれす! ご主人様のためにシルファが買ってきたのれすよ!」
ばばーん、と、音がしそうな仕草だった。
「おおー」
ぱちぱちぱち、と、つられて拍手。
シルファちゃんの言葉どおり、お盆の上にはティーカップが乗っかっていて、中からゆげが立ちのぼっている。かすかに漂ってくるのは、新鮮な紅茶の香りだ。
なるほど。
どうやら俺の疑問に対する回答は、こういうことだったらしい。
だいぶ慣れてきたとはいえ、シルファちゃんにとって買い物というのはひと仕事だ。スーパーでの買い物は、他の場所が空いていても絶対に若い女の人がレジを打つ場所に並ぶ。そうしないと怖いのだと思う。
だからこその、この紅茶である。
テレビで紹介されて知ったということは初めて足を運ぶ店ということでもある。行ったことのない店で物を買うという行為は、シルファちゃんの前にそびえる乗り越えようのない壁みたいなものだ。
しかし、シルファちゃんはその困難なミッションを完遂した。
達成感があっただろう。あるいは、初めて逆上がりができたときのような、目の前がぱーっと開ける感覚を味わったのかもしれない。
「ちゃんと洗い物は済ませてきたれすよ?」
押し黙った俺を見て誤解したのか、シルファちゃんは紅茶をいれることに気を取られて家事がおろそかになっているわけではない、というアピールをした。
すご。
まだ五分も経ってないのに、全部片付けてしまったのか。
そんなに〝武勇伝〟を話したかったのかと思うと微笑ましさで頬が緩む。
だからなのか、自然とその言葉が口をついた。
「すごいね、シルファちゃん。ありがたくいただくよ」
「遠慮しないれ好きならけ飲むといいのれす」
俺にティーカップを手渡したシルファちゃんは、お盆小脇に抱えると、両手を腰に当て、「まあ、シルファにかかればたいしたことないのれす」と鼻高々になっていた。
正直なところ、あれだけ食べた直後なので、紅茶の入る余地はあまりない。
が、これは多少無理をしても飲まなければならないだろう。
それに紅茶って中華料理との相性がいいんじゃなかったっけ。いや、あれは烏龍茶だったか?
「じゃあ、いただきます」
期待のこもった視線を感じながら、ティーカップに口をつけた。
ひとくちすすると、熱さと香味が舌先に刺激を与える。甘くはないが、香りが甘い。ほんのり漂うのは、イチゴの匂いだろうか。喉を通りすぎていく心地よい感触に、一日の疲れが薄れていくのを感じる。
「おいしいなあ」
「それはそうれすよ。なんといっても一番人気なのれすから」
ちょっとだけ頬を赤らめて、シルファちゃんはそっけなく言う。言葉はそっけなくとも、見えない尻尾がぱたぱたと振られている気がした。
――ここで話をやめていればよかったのに。
余計なことを言わず、美味しい紅茶と穏やかな空気を満喫していればよかったのに。
なぜ俺はこんなことを言ってしまったのか。
自分の迂闊さを心の底から悔やむしかない。
「やっぱりおいしいものって、何度飲んでもおいしいよね」
「……え?」
きっと俺も浮かれていたのだ。
シルファちゃんが喜んでいるのが手に取るように伝わってきて、俺は嬉しかったのだと思う。
「このイチゴのフレーバーティーって、あの店のオリジナルなんだってね。このまま飲んでもおいしいけど、イチゴの実を入れるともっとおいしくなるんだって」
だから、シルファちゃんが呆然と息を呑んだのにも気づかず、『人から聞いた蘊蓄をべらべらしゃべる』なんて大失態を犯してしまったわけで。
「……ご主人様、もう飲んらことあったんれすね」
沈んだ声を聞いて、ハッとしたときには遅かった。
先ほどまでのはしゃぎようが嘘のように、シルファちゃんは肩を落としてうつむいている。雲ひとつない青空が、突然ぶ厚い雨雲に覆われてしまったかのようだった。
そう。
少し考えればわかることだった。シルファちゃん自身は、紅茶を買ってきても飲めないのだ。当然、シルファちゃんが紅茶を好きだなんてことありえないし、趣味で嗜むわけでもない。
ようするに、俺を喜ばせたい一心で買ってきてくれたのだから、決して『前に飲んだことがある』なんて匂わせるべきではなかったのである。
めい"ろ"ろぼと黒髪の好敵手
始業の鐘が鳴る前の教室は、ひときわ雑然としていた。
「それは悪いことをしちゃいましたね」
綺麗に切り揃えられた前髪が揺れる。
ことの一部始終を聞いて、右隣の席に座る草壁さんは、申し訳なさそうに眉根を下げた。
俺は慌てて首を左右に振り、
「いやいや、草壁さんはこれっぽっちも悪くないから」
考えるまでもなく、俺が迂闊すぎただけだ。
「ですけど、結果として私は、シルファさんから貴明さんの〝初めて〟を奪ってしまったわけですし」
「〝あの紅茶を初めて飲む機会〟ね」
そんなふうに省略されると意味深に聞こえるからやめて欲しい。
たしかに、俺がシルファちゃんのいれてくれた紅茶を知っていたのは、ついこの間、草壁さんに飲ませてもらったからである。草壁さんは、お気に入りの紅茶を魔法瓶に入れて、よく学園に持ってくるのだ。大抵はクラスメイトの女子に振る舞っているが、たまに俺にもお裾分けしてくれることがあって、
「あのフレーバーティー、すごく評判がよかったので、貴明さんにも是非味わってもらいたかったんです」
「あれはホントにおいしかったよ」
評判になるだけのことはある、ということだろう。
なにせ、あのシルファちゃんをして買いに行こうと思わせるくらい話題になっているのだ。紅茶好きの草壁さんがチェックしていないはずがないし、俺に飲ませてくれたのは純粋な厚意だったに違いない。だから、草壁さんが負い目を感じる必要なんてどこにもない。
「おい貴明ぃ。優季ちゃんのことイジメんなよ」
前にある背中が、ニヤついた声を出した。
「向坂くん。私、貴明さんにだったらイジめられてもかまいません」
草壁さんの声も、笑みを含んでいた。
うん、それ全然フォローになってないし、フォローするつもりもないよね?
俺は椅子に座ったまま、前の背中を小突き、
「あんま余計なこと言ってるとノート返してもらうぞ」
「それとこれとは話がべつだろ。ジュース一本で契約は締結済みだ」
「まだジュースは支払われてないから、その契約はこっちから解除できるはずなんだが」
「馬鹿野郎。今買いに行ったら書き写せなくなるじゃねーか」
じゃあ財布をよこせ、とは言えなかった。
こっちを振り返ることなく、雄二は必死で右手を動かしている。一限に提出する課題を忘れたコイツは、ジュースと引き替えに俺のノートを手に入れたというわけだ。そろそろ予鈴が鳴るから、これ以上ちょっかいを出して邪魔するのは気が引けた。
「仲がいいですね」
草壁さんが俺たちのやり取りを見て微笑んでいる。
同い年のはずなのに、どうしてか近所のお姉さんに面倒を見てもらっているような気恥ずかしさを感じた。
バツの悪さをごまかすように、俺はわざとらしく咳払いをして、
「……でさ、草壁さん」
「はい?」
「もしよかったら、あの紅茶を活かす手を教えてくれないかな?」
草壁さんは、ちょこんと首をかしげて、
「紅茶を活かす手、ですか?」
「うん。なんていうか、普通にあの紅茶が飲みたいって言ってもダメだと思うんだよね。俺が気を遣ってるって感じちゃうだろうし」
昨日、シルファちゃんがいれてくれた紅茶は、あの一杯だけだ。
普段であれば「おかわりいるれすか」くらいは聞いてくれるのだが、あのあとシルファちゃんは無言で部屋を出て行ってしまった。というか、紅茶はポットに湯を入れ、それからティーカップに注ぐわけで、いれてくれた紅茶はまだだいぶ残っていたはずなのだ。おそらくポットに残ったぶんは捨ててしまったのだろう。自分の失言に呆然としてしまい、フォローできなかったのは痛恨事である。
シルファちゃんは今朝も「全然、全然、気にしてないれすよ」みたいな顔をしていたが、基本的に隠し事ができないコなので、落ち込んでいるのはバレバレだった。かといって、こちらから紅茶の話を持ち出すのは、傷口に塩を塗り込むような行為に思えて、
「なるほど。紅茶の借りは紅茶で返さなければならない、というわけですね」
つまりそういうことである。
わざとらしく「あの紅茶が飲みたいからシルファちゃんにいれて欲しい」と言うのは今更なのだ。だから、なにか納得のいく理由を作って紅茶をいれてもらい、そのうえで絶賛すればきっとシルファちゃんの機嫌もよくなる、と俺は考えた。草壁さんくらい紅茶に詳しいなら、冴えた手段を思いつくのではないかという短絡的な考えだったが、
「でしたら、いいアイディアがありますよ」
「え、ホント?」
自分で話を振っておいてアレだが、まさかこんなにすんなり出てくるとは思わなかった。
「今日、女子は家庭科の授業でクッキーを作ることになってるんです。貴明さんには私が作ったものをお渡ししますから、それを持って帰ってください。それでシルファさんに『紅茶に合うクッキーをもらったから、いれて欲しい』ってお願いすれば、きっと上手くいきますよ」
グッドタイミングでしたね、と草壁さんは可愛らしく人差し指を立てる。
たしかに、神の思し召しのような偶然だ。草壁さんは料理も上手らしいし、それはそれは美味いクッキーができあがるのだろう。が、
「えっと、いいのかな」
「貴明さん、クッキーは嫌いですか?」
「そうじゃなくて……俺がもらっちゃっていいのかな、って」
草壁さんはなんでもないことのように言うが、冷静に考えると、なんというか、その、漫画に出てくるお約束のイベントみたいじゃないか。調理実習で作ったクッキーを渡す、なんていうのは。
草壁さんはあくまでも微笑みを絶やさずに、しかし、ぽっと頬を染め、
「もちろんです。渡す口実ができてよかったな、って思ってるくらいです」
「う、あ、あり、がとう」
顔の熱が俺にも伝播する。
口実ができたって、それは本人に向かって言ったら意味がないと思う。
こんな照れくさいネタばらしは他にない。
「えー、次の和訳はなんだ。『俺は幼馴染みがモテるのを横で眺めていると、たまに絞め殺してやりたくなることがある』でいいのか?」
「……俺がおまえに貸したの、英語じゃなくて数学のノートだからな」
さりげなく呪詛を吐き出す雄二に突っ込むが、切れ味は鈍かった。これじゃあ照れ隠しにもなりゃしない。
草壁さんの顔を見ていられなくて、視線を泳がせながら教壇の方に向き直る。
そのとき、ちょうど予鈴が鳴り始め、同時に、
「――ダーリン! 課題のノート見せてぇ~!」
ミルファちゃんが髪を振り乱しながら、遅刻ギリギリで教室に駆け込んできた。
こうして今日もまた、慌ただしい学園生活が始まる。
*****
そして今日もまた、慌ただしい学園生活が終わった。
待ち遠しいと思うほど遠ざかるのが人の世の常なのか、放課後は砂漠に揺らめく蜃気楼のようだった。なんだか二日ぶんくらい授業を受けた気がする。
自分で考えている以上にシルファちゃんのことが気がかりなのかもしれない。
あのコは一度落ち込むと、立ち直るまで一日中ダンボールの中に閉じこもるくらいは平気でする。俺が見ているところでは強がっていても、見ていないところではどうだろう。
そんなふうに考えると、いてもたってもいられなかった。
クラスメイトたちに別れを告げ、教室を飛び出してきたのが二十分ほど前の話。
朝きた道を、朝きたときの倍以上の速度で逆走し、俺はもうすぐ自宅にたどり着く。
はやる気持ちがそうさせるのか、ジョギングと競歩を繰り返し、最後はほとんどマラソンみたいになってしまった。このみに付き合わされて全力疾走するよりマシだが、だいぶ息があがっている。
正直言えば、今は紅茶よりも一杯の水が欲しい。
しかし、帰ってからの段取りはすでに決めてあるのだ。
ロクに授業も聞かず、練りに練った作戦である。
間もなく俺は、見慣れた門をくぐり、自宅の玄関までやってきた。
取っ手に手をかける前に、乱れた呼吸を整えるため、大きく息を吸って、吐く。全身にびっしり汗をかき、両膝に疲労が染みついていたが、そっちはあまり関係ない。とりあえず声が出ればそれでいい。あとは勢いで押し切るのみ。
それから何度か深呼吸し、意を決してドアを開けた。
「ただいまー!」
家の中に向かって叫ぶや否や、靴を脱ぎ捨てる。靴下で玄関にあがり、もつれかけた足取りで廊下を駆け抜け、一気にダイニングキッチンへと繋がるドアを開く。
「ぴひゃ!? ご、ご主人様!?」
そこにはシルファちゃんがいた。ちょっとホッとした。どうやら落ち込んでダンボール箱に引き籠もったりはしていなかったようだ。
シルファちゃんは戸惑いをあらわにして、
「ろ、ろうしてこんなに早く帰ってくるれすか?」
「シルファちゃん!」
「ぴいっ!?」
質問には答えず、シルファちゃんに詰め寄る。
疑問を抱かせてはならない。多少強引でも、紅茶をいれてもらう方向に話を持っていかなければならない。シルファちゃんに昨日のことをあれこれ考える隙を与えてはならない。
「――実は今日女子の調理実習があってクッキーを作ったらしいんだけどちょっとお裾分けしてもらったんだ。めちゃくちゃ紅茶に合うって言われて渡されてだから是非ともシルファちゃんに昨日の紅茶をいれてもらいたいんだけど!」
一回だけ息継ぎをした。
舌を噛みそうになりながら、まくしたてるように喋った。
シルファちゃんは、ぽかんとした顔で俺を見上げている。
室内は静かなものだ。はーはーという自分の息づかいだけが場違いに繰り返されている。
俺は無言。シルファちゃんの返事を待っている。
シルファちゃんも無言。理解が追いついてこないのかもしれない。
流しの前で向かい合ったまま、十秒、二十秒と時間が過ぎていく。
やがて、
「……くっきー」
シルファちゃんの小さな口が、囁きをもらした。
俺の台詞の中から、もっとも重要な部分を、しっかり聞き取ってくれたらしい。
俺は間髪入れず、握りしめていたカバンに手を突っ込んで、手のひら大の包みを取り出す。
「そ、そう! クッキーもらったんだ! だから紅茶を――」
ちん。
ちん?
甲高い音が聞こえた。
突然の闖入者みたいな無遠慮な音だった。
なんだっけ、これ。
たしかに聞き覚えはあるのに、
「――あ、」
思い出した。
そうだよ。電子レンジの音だよ。
シルファちゃんがきてからは、あまり使うことがなくなっていたのでど忘れしていた。ボタンを押すだけで入れたものを暖められる、ひとり暮らしの心強い味方じゃないか。
シルファちゃんの肩越しに電子レンジを眺めると、電源ランプが点滅していた。
俺が帰ってくる前にタイマーを仕掛けて、ちょうど加熱が終わったところなのだろう。なにをしていたのだろうか。気にする余裕がなかったが、そういえば玄関を開けたときから家に甘い匂いが充満していた気がする。
ほら。
この部屋は特に香ばしい香りが漂っていて、まるで俺が手に持っている包みの中身と同じ、
あれ?
包みの中身と、
同じ?
「……へー、クッキーもらったれすか、そうれすか」
シルファちゃんの声が、かすかに震えている。
その震えは、俺の頭に浮かんだ〝イヤな予感〟というやつが、的中したことを示しているに違いなくて、
「……つかぬことを聞くけど、あの、シルファちゃん、今、電子レンジに入ってるのって」
おそるおそるシルファちゃんを見ると、可愛らしいつむじが目に入った。シルファちゃんはうつむいている。肩が震えているのは、目の錯覚ではない。
押し黙ったまま、シルファちゃんはゆっくりと流しを指さす。
指先を視線で辿ると、流しの脇には円形や星形の型抜きが転がっていた。よく見れば、クッキングペーパーやら小麦粉やらと闘った形跡が残っている。
明らかにクッキーを作ったとおぼしき戦場跡だった。
「……えっと」
どんな馬鹿野郎でも、今の状況くらいはわかるだろう。
一言で言うと、作戦失敗。
ここまですべてが裏目に出るのも珍しい。
俺は口元を引きつらせつつ、逆再生するみたいに、ぎくしゃくと手に持った包みをカバンの中に戻す。どうしたものかと数秒考え、俺の脳みそはひとつの答えを導き出した。
「……さて」
ひとつ深呼吸をしてから、できるだけ爽やかに聞こえるよう、
「ただいまシルファちゃん! なんだか甘い匂いがするけど、ひょっとしてなにか作って」
「やり直ししようとするなれす!」
ダメに決まってますよね。
こんなの通用するわけないですよね。
「ごめん! シルファちゃん!」
「……ご主人様が謝る必要はないれす」
がばっと顔をあげたシルファちゃんは、手を合わせる俺を斜めに見ながら腕を組み、
「そのクッキー、ご主人様に紅茶を飲ませたのと同じ女が作ったれすね」
どうしてわかるんだろう。
「女の勘れす」
「えっ、俺、顔に出てた?」
「バレバレれす。ご主人様の考えてることは、専属めいろろぼのシルファには簡単にわかるのれすよ」
そこまで筒抜けなのはちょっと嫌だなあと思いつつ、少しだけシルファちゃんの機嫌がよくなったので黙っておく。
シルファちゃんは不遜な顔で右手を差し出し、
「ちょっと貸して欲しいのれす」
「え? カバン?」
無言でうなずき返される。
言われるがままカバンを渡すと、シルファちゃんは中から包みを取り出し、
「ことごとくご主人様の初めてを奪う女のお手並み拝見なのれす!」
いやあ、初めてって、その略し方流行ってるのかな、一部で。
シルファちゃんは恨みのこもった手つきで、荒っぽく包みを開くと、
「……ぷぷぷ」
姿を現したクッキーを見て、ニンマリと勝者の笑みを浮かべた。
「なんれすかこれは。黒こげでみっともないれす。ぶかっこうれ、これれはクッキーというより炭れすね。こんなのご主人様に食べさせるわけにはいかないれす」
たしかにシルファちゃんの手のひらには、初心者がやってしまう失敗をこれでもかと詰め込んだ結果が乗っかっていたが、
「あ、そっちはミルファちゃんがくれたやつだ」
シルファちゃんの笑顔が凍りついた。
実は草壁さんとはべつに、ミルファちゃんもクッキーをくれたのだ。もちろんあとでありがたく頂戴するつもりだったのだが、まさかミルファちゃんもこんなところでシルファちゃんに酷評されているとは思うまい。
「こ、こっちれすね。まったく、おぽんちミルミルは紛らわしくてまいるのれす」
何事もなかったかのようにミルファちゃんに責任を押しつけ、シルファちゃんはもうひとつの包みを取り出した。
そして緊張した面持ちで包みを開いて、
閉じた。
無言だった。
シルファちゃんがどう思ったのかというのは、への字に結ばれた口を見ればよくわかる。
悔しそうな顔には、敗北の色が塗りたくられていた。
なにか言わなければと思い、
「あ、あのさ、草壁さんはそういうの得意なんだよ。だから気にしなくても……」
「……くさかべっていうのが、その女の名前れすか」
底冷えのする声で、シルファちゃんはつぶやく。
「ろうやら超えなければならない壁が現れたようれすね。ご主人様、シルファはその女にせんせんふこくするのれす!」
「せんせ……宣戦布告ね」
下克上といい、宣戦布告といい、シルファちゃんって歴史マニアなんだろうか?
テレビっコだし、時代劇が好き、とか?
それにしても、草壁さんが超えなければいけない壁って、上手いこと言うなあ。
シルファちゃんは、両手を腰に当て、胸を反らせて、
「というわけれ、明日その女を連れてきてくらさい」
「え? うちに連れてくるの? シルファちゃんが行くんじゃなくて?」
「こういうときは先に仕掛けられた方が場所を指定れきるものなのれすよ」
「俺にはシルファちゃんの方からふっかけてるように見えるんだけど」
「紅茶とクッキーれ先制攻撃されたのはこっちれす。ご主人様はシルファの味方じゃないのれすか」
それを言われると弱い。
まあ、草壁さんのことだから、邪険にしたりはしないだろうし、
「草壁さんをうちに連れてくればいいんだよね?」
シルファちゃんは、重々しく首肯して、
「専属めいろろぼの実力、見せてやるれすーっ!」
高らかに雄叫びをあげた。
*****
そして翌日の放課後。
俺は草壁さんと肩を並べて通学路を歩いている。
「ホントにごめんね。無理言っちゃって」
「いえ、そんな。貴明さんの家にお邪魔できるなんて、こっちがお礼を言いたいくらいです」
無茶な頼みにも関わらず、草壁さんはまったく嫌そうな素振りを見せず、笑顔すら浮かべている。この人は女神とか菩薩とか、そういう存在なのではないかと本気で思う。まぶしすぎて見れない。
「ふふ、また初めてもらっちゃいますね」
「……それ、シルファちゃんの前で言わないでね」
苦笑が混ざるが、深刻さは感じていなかった。
実際のところ、今回のゴタゴタは、すでに山場を超えているのだ。
最初に紅茶を出したとき、シルファちゃんがショックを受けていたのは間違いないが、そこから先は俺の見通しが甘かったと言わざるを得ない。たしかに、うちにきたばかりのシルファちゃんであれば、ヘソを曲げてダンボール箱の中で膝を抱えていただろう。
だが、シルファちゃんだって成長したのだ。ショックな出来事があっても、気持ちを切り替えて前を向ける。クッキーを焼いていたのは、つまりそういうことだ。自分がシルファちゃんを見くびっていたことを、つくづく思い知らされた。
「でも、話を聞けば聞くほど」
「え?」
「シルファさんが貴明さんのことを大好きだって伝わってきますね」
草壁さんの口調は軽かったが、からかっている様子はない。
「そうなのかな」
自信なさげな俺の返事を吹き飛ばすように、草壁さんは力強く微笑み、
「そうですよ」
草壁さんに言われると、ホントにそういう気がしてくるから不思議だ。
「あ、ここ、俺のうち」
いつの間にか、けっこう歩いてきていた。
我が家の門の前で立ち止まる。
「わあ、わあ」
草壁さんは胸の前で両手を合わせ、どうしてかしきりにうなずいていた。心なし興奮しているように見えるというか、どこぞの文化遺産に向ける目つきで俺んちを見渡している。自分が見られているわけでもないのに、なぜか全身がむずむずしてくる。
「じ、じゃあどうぞ」
草壁さんを門の内側に招き入れ、取っ手を握ってドアを開けると、
玄関にはダンボール箱が鎮座していた。
冷蔵庫を入れるデカイやつだ。
前言撤回。
やっぱり成長してないかも。
横目で見やると、草壁さんは物珍しげにダンボール箱を凝視していた。ああ、ヘンな家だと思ってるんだろうなあ。
「えーっと、ただいま、シルファちゃん」
ダンボール箱に向かって語りかける。
すると草壁さんは目を丸くして、すごく言いづらそうに、
「……シルファさんってダンボール箱だったんですか? その、聞いていた話とは随分……」
この人も大概天然さんだ。
「シルファちゃんにはダンボールをかぶるクセ? があって……まあ、また今度説明するよ」
俺はダンボール箱に向き直り、
「おーい、シルファちゃーん。言われたとおり、草壁さん連れてきたけど。……シルファちゃん?」
呼びかけても一向に返事が返ってくる気配がないので、しゃがみこんでダンボール箱のふちに手をかける。いきなりひっくり返して驚かしてもアレなので、そーっと持ち上げて中を覗き込むと、
「……ばかぽんたん?」
そこにシルファちゃんは入っておらず、代わりに一枚の紙切れが置かれていた。
ばかぽんたんというのは、その紙に書かれていたフレーズだ。
「――ぷぷぷ。甘いれす。甘々なのれす。シルファはらンボール箱の中になんていないれすよ!」
上から勇ましい声がした。
上を見た。
階段の最上で、シルファちゃんが腰に手を当てて玄関を見下ろしている。特撮モノによくある主人公の登場シーンみたいだ。ただし特撮モノの主人公は、白いパンツ丸見せにしたりはしないだろう。
シルファちゃんはパンツが見えるのもお構いなしに、おさげをふりふり階段を駆けおりてきて、草壁さんにずびしと人差し指を突きつけ、
「こんな罠に引っかかるなんて恐るるに足らずなのれす!」
「違う、シルファちゃん、引っかかったの俺、俺」
「ぴゃうっ!?」
シルファちゃんが弾かれたようにこっちを向く。
「な、なにやってるれすか! ご主人様が引っかかってろうするんれすか!」
いやいや、そんなこと言われましても。
少なくとも初対面の人が「ダンボール箱=シルファちゃん」なんて公式を知ってるはずないわけで、どちらかというと仕掛けた罠に問題があるような気がしないでもない。しかもこの罠って実効性がまったくないよな。せいぜい、シルファちゃんが少し精神的に優位に立てるくらい?
「ご、ご主人様はらめっコれす! そんならからタマタマにネギを突っ込まれるのれす!」
「どうしてそんなこと知ってるの!?」
「この前、寝言れうなされてたれす」
しれっとした顔でトラウマを掘り起こすのはやめて!
っていうか、草壁さんノートになにをメモってるの!?
「――っと」
草壁さんは何事もなかったかのようにノートを閉じると、がくがく震える俺と、子犬が威嚇するみたいに唸るシルファちゃんを見比べ、丁寧におじぎをした。
「はじめまして、シルファさん。私、草壁優季っていいます」
騒々しかった玄関に、鈴を鳴らすような美声が響く。
そして、顔を上げたとき、草壁さんは楽しそうな微笑みを浮かべていた。
「……あ、う」
完璧な笑顔だ。
シルファちゃんじゃなくても気圧されてしまうに違いない。美人の笑顔は威力を伴う。
「これからよろしくお願いしますね」
これがシルファちゃんと草壁さんのファーストコンタクトだった。
わかりきっていたことではあったが、宣戦布告もなにも、争いになりようがなかったのである。
*****
波乱まみれのファーストコンタクトから三十分ほどが経過し、俺とシルファちゃん、そして草壁さんの三人は、リビングでテーブルを囲んでいた。俺と草壁さんが向かい合って座り、シルファちゃんは――草壁さんの隣で膝立ちになって、こぶしを握りしめている。
とはいえ、べつに掴みかかろうとしているわけではない。
その証拠に、シルファちゃんは両の瞳をキラキラさせて、草壁さんの話に耳を傾けていた。
「――そうして、アンドロメダ王女はペルセウスの妻となったのでした。めでたしめでたし」
「…………はふぅ」
草壁さんが話を締めくくると、シルファちゃんは熱いため息をもらし、足を崩してぺたんと尻もちをつく。熱に浮かされたような夢見心地の表情を見るに、よっぽど物語にのめり込んでいたのだろう。
『そういえば、こんな話を知ってますか?』
草壁さんは、初めはそんなふうに話を切り出した。
敵愾心むき出しで『粗茶』を振る舞い、まるで姑かなにかのように俺との関係やらプロフィールやらを聞き出そうとするシルファちゃんに向かって、草壁さんはごくごく自然にそう話しかけた。たしか趣味の話から繋がる流れだったはずだ。
そのとき、シルファちゃんは俺の横で険しい顔をしていた。
今はご覧のとおり、草壁さんの横で興奮した顔をしている。
おそらく無意識のうちに、草壁さんの話を聞くための〝特等席〟に移動したのだと思う。
わざわざ訊ねたりしなくても、シルファちゃんの様子を見ているだけで、感想が手に取るように伝わってくる。
「ちなみに、アンドロメダはそのあとで、女神アテナによって星座として天に召し上げられたそうです。今、私たちが見ることができるアンドロメダ座は、そういう経緯で輝きを放っているんですよ」
もはやため息すらつかず、シルファちゃんはこくこくとうなずき返すだけだ。
いや、なんていうか、すごい。
ホントに大したものだ。
正直、俺も聞き入っていた。どこかで聞いたことのある話を飽きさせず、しっとりと耳に馴染ませるというのは、とんでもないことに違いない。
ましてやシルファちゃんにとっては、初めて聞く物語だ。その感動の度合いは俺と比べものにならないだろう。テレビっコだから、こういうのを見聞きするのは好きに違いない。
そういうわけで、草壁さんの語りはシルファちゃんを虜にしてしまったようだ。
こんな特技まで持っていたなんて、心の底から感心してしまう。
「シルファさんは、どういうお話が好きですか?」
微笑をたずさえて、草壁さんが訊ねた。
「ろんな話れも面白ければいいれすけろ、ろちらかといえば最後はハッピーエンろがいいのれす」
「私もです。物語の登場人物が幸せだと、こっちまで嬉しくなっちゃいますよね」
和気藹々としたやり取りは続く。
手なずけたというと人聞きが悪いが、ここまで他人に懐くシルファちゃんを見たのは初めてだった。空気が華やいでいて、こっちが居づらいくらいである。女の子同士のお茶会って、こんな感じなのだろうか。
「あとは……あら?」
喉を潤しながら話していた草壁さんは、いつの間にか自分のティーカップがカラになっていたことに気づき、
「おかわりいれてくるれす」
草壁さんがなにか言うより早く、シルファちゃんが両手を差し出した。
「ありがとうございます。お願いしますね」
「こ、これくらいおやすいご用なのれすよ」
シルファちゃんはティーカップを受け取り、忙しなく立ち上がると、そそくさとダイニングキッチンの方に歩いていく。
少し顔が赤くなっていたので、ちょっと照れていたかもしれない。あまのじゃくって、素直にお礼を言われるのには弱いんだよなあ。
「いい子ですね、シルファさん」
背中を見送ってから、こちらに向き直って草壁さんが言う。
シルファちゃんがいいコという意見には、俺も全力で同意するが、
「……草壁さんって、すごいね」
そんな陳腐な賞賛の言葉しか出てこない。
シルファちゃんはいいコであると同時に、あまのじゃくであり、意地っ張りであり、とても難しいコでもあるのだ。
そのシルファちゃんと出会って一時間もしないうちに打ち解けるなんて、草壁さんには特殊な才能があるとしか思えない。数日に渡って嘘をつかれ、挙げ句に踏みつけられて、愚民呼ばわりされた誰かさんとは大違いだ。……これが人柄の差ってやつなのかなあ。へこむなあ。
「全然すごくありませんよ」
「いや、実はシルファちゃんってああ見えてかなり人見知りで」
出会い頭に罠を仕掛けておいて、人見知りもなにもあったもんじゃないが、これはいちおう言っておかねばなるまい。
しかし、草壁さんは意外にも深くうなずき、
「そうみたいですね」
驚いた。
「わかるの?」
「なんとなく、そうなんじゃないかなって」
草壁さんと顔を合わせてからのシルファちゃんに、『人見知り』という要素はなかったはずなのだが、わかる人にはわかるということなのだろうか。それならそれで、余計にすごい。
「上手く言えないんですけど」
草壁さんは、すっと居住まいを正し、
「たぶん、シルファさんがああして懐いてくれるのは、貴明さんがいるからだと思います」
「……俺?」
「はい。うーん、そうですね。人って誰でも心に壁を持ってるじゃないですか。高さや厚さは人によって違いますけど」
草壁さんがなにを言おうとしているかわからないが、とりあえず曖昧にうなずいておく。
「私はその壁って何枚もあると思うんです。それで、シルファさんは一番外側の壁がすごく高くて厚いなって感じたんですよね」
「それは、そうかも」
イメージしてみると、なんとなく草壁さんの言いたいことがわかる。
かつて研究所から送られてきたばかりのシルファちゃんは、まさにそういう感じだった。彼女が外の世界に向けて壁を作っていたのは、忘れっぽい俺でもしっかりと覚えている。
「でもさ」
俺はテーブルに頬杖をついて、
「草壁さんはその壁をあっさり越えちゃったってことでしょ? それってやっぱりすごいよ」
すると草壁さんは、数回目を瞬いてから、
「私、超えてませんよ?」
「え?」
手のひらに乗せていた顎が、ずりっとずれる。
「……どういうこと?」
「壁に扉がついていたので、私はそこをくぐって内側に入っただけですから」
草壁さんは、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、
「その扉、貴明さん、っていう名前なんですけどね」
すらっとした指で、俺を指し示した。
ハニワみたいな顔をした俺を気にする素振りも見せず、草壁さんは穏やかな声音で続ける。
「断言はできませんけど、シルファさんは貴明さんが連れてくる相手ならある程度は安心できるって思ってるんじゃないでしょうか。最初の壁が高くて厚いせいで人見知りではありますけど、その壁さえ越えてしまえば誰とでも仲良くなれちゃうかもしれませんよ」
控え目な言い方ではあるものの、多少なり確信を持っているのではないかと思う。
たしかに人見知りのワリには、うちにきた人に対しては普通に接してるよな、シルファちゃんって。未だに蛮族呼ばわりされる雄二は例外中の例外ってことで。
「いわば貴明さんは、外界とシルファさんを繋ぐ架け橋ってところですね」
締めくくりは、なんとも草壁さんらしい物言いだった。
ようするにシルファちゃんは俺を信頼してくれているということだ。それは言われずとも自覚しなければならないことだし、信頼に応えたいとも思っている。
俺はシルファちゃんの扉であり、橋であり、
ご主人様なのだから。
「それにしても、貴明さんがメイド好きだとは思いませんでした。今度、私もメイドさんの格好をしてみましょうか」
「……草壁さんは、メイドより保母さんとかが似合うと思うよ」
オチをつけるのを忘れないあたり、まったくもって草壁さんにはかなわない。
「……ろうしたれすか、ふたりとも」
リビングの微妙な空気を感じ取ったのか、ティーカップをお盆に乗せて戻ってきたシルファちゃんが首をかしげている。
「なんでもないよ」
ここでシルファちゃんの話をしていたなんて言えるはずがない。
シルファちゃんは少しだけ眉根を寄せるが、それ以上の追求はせずに、テーブルの上にティーカップを置いた。
「粗茶れす」
「ありがとうございます、シルファさん」
草壁さんは柔らかな微笑みをシルファちゃんに向け、
「今度オススメの茶葉を持ってきますね。今日のおもてなしのお返しをさせてください」
「シ、シルファはめいろろぼらから、飲めないもん」
「でしたら、貴明さんにいれてあげてください。珍しい紅茶を手に入れたら、次からはシルファさん経由で飲んでもらうことにしますから」
どこまでも曇りのない笑顔だった。
シルファちゃんはあたふたと俺と草壁さんを見比べて、それから最終的に俺の方を向いた。
「よろしくね」
そんな期待のこもった目で見つめられたら、他の返事なんてできるわけがない。
シルファちゃんは、ぱっと花が咲いたみたいな表情を浮かべるが、それも一瞬。
すぐにへの字口を作って、
「ゆ、ゆーゆーの面子をらいなしにするわけにはいかないれすし、言われなくてもご主人様のめんろーはシルファが見てやるれす」
ぷいっと横を向いたシルファちゃんは、やっぱり最後の最後まで素直じゃないのだった。
END