またもやおおげさなタイトルのこのシリーズ(【私見】をつけました)。
「富島健夫作品に見る」とでもしたほうがいいかもしれないが、
まあしばらくこのままでいきます。
「初恋」(春陽文庫『風車の歌』所収)は健司と真理、二人の恋物語なのだが、
健司という名前もさながら、冒頭のファーストキスシーンで、
ノンフィクションを思わせられた。
あるインタビューで、作者はファーストキスの相手が1歳年上であり、場所は雨の降る港の波止場だと答えているが、
真理は健司より年上の17歳であり、そしてキスの舞台も小雨ふる海の波止場であるのだ。
真理の言葉の美しさや、健司が母を早くになくし、貧しい生活を送っていること、
早大の仏文科を目指していること、後に作家になることなど…『雪の記憶』や作者自身の姿が交錯している。
先のインタビューを読み返してみると、真理と健司の出会いのシーンは事実とは違うようだし、
作者は読者をだますのがお上手なようなので(!)これをそのままノンフィクションとして受け止めることはできないのだが、
『雪の記憶』のように純粋な恋愛の美しさを閉じ込めているのではない点にリアリズムを感じざるを得ない。
真理の両親は健司との交際に猛反対し、真理を違う町の親戚に預けてしまう。
それから2年の間に、健司から真理の面影は薄れゆき、映子という少女に心を動かす。
卒業後二人は再会するのだが、健司は映子を心に残しながら、真理を欲望の対象として見つめるようになる。
さて、私がこの前に読んでいたのは『本音で語る恋愛論』だったのだが、
私がそのエッセイに対して納得いかなかったのは、
そこに男の身勝手さや女に対する甘え、開き直りのようなものを感じたからだった。
しかし健司の苦悩をみると、
そこには男性のある種の絶望や諦念、自責の念が込められているのではないかとも思えてきた。
『雪の記憶』にあるような美しい恋は、人生でたった一回きりの、
思い出だけのなかで永遠に続くものなのかもしれない。
作者が果たしてそんな恋をしたのかどうかはわからないが、
読者は確実に理想的に美しい恋を追体験させられている。
でも、それはあくまで一瞬のリアルであり、それを永遠に保つためには幻想に生きるしかない。
それは作者の本意ではないだろう。
この作品のラストに、
恋におぼれるのは、十八歳の少年の選ぶ道ではない。
という一文がある。
別の本に「僕が人にほれたのは十代の時だけ。それ以来はほれたことはないな」と書いてあったのが気になっていた。
真理の両親に引き裂かれたときに健司の恋はまったく終わってしまったのか。
それがどう『青春の野望』や『女人追憶』のような、女性遍歴の物語につながっていくのか。
そして、果たしてその中に雪子や真理の姿はあるのだろうか。
そろそろどちらかを読んでみようと思う。
そして、この一文にさみしさを覚える私は、やはり、リアリストになりきれないのだろうか。
趣旨がずれた。