富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

不良少年の恋

2010-04-29 20:15:27 | コバルト
集英社文庫 コバルトシリーズ 昭和52年5月初版
カバー・カット:中原侑

※初出:集英社コバルトブックス(1969) (W)



『ペスト』を読むのに10日かかってしまった。
しかしこれは、ただ物語として読んでよいものか?
表現に含まれた寓意を読み取る能力と情熱なく終了。


さて、久しぶりの富島作品も重かった。


<不良少年の恋>

作者が散歩中ある少年に追いはぎに会う導入に始まり、
その少年の生い立ちを記していくというノンフィクション仕立ての物語
(たぶんフィクションだが)。

主人公の吾郎は東北の温泉地にある貧しい農家に生まれる。
両親は地元の有力者が経営する温泉旅館で働き、
そこで吾郎は「貧しいものの生きづらさと世の中のみにくさ」を知る。

貧しさによる迫害と戦う話には、『のぶ子の悲しみ』があるが、
のぶ子と比較すれば、吾郎は「負け」の主人公とも言える。
吾郎が恋した令子も、吾郎のふたりの姉も「負けた」のだろう。


しかしのぶ子も決して「勝った」わけではない。

のぶ子も吾郎も戦っていたには違いない。
ただ、その戦い方が違うのだ。


おれも死のうか。いや死んだ気になって世のなかに復讐してやれ。
令子を殺し、二人の姉を堕落させた世間を、おれの力の及ぶかぎり引っかきまわしてやれ。
それから死んだって殺されたって、刑務所に入れられたってもともとじゃないか。

この世にはもう、だれもおれを愛する者はいないのだ。おれが愛する者もいないのだ。
原爆でも水爆でも落ちるがいい。



この作品を読んでいて、想起させられたのは永山則夫だ。


人間には、あらがえない運命というものがあり、
それは何がいいとか悪いとか、正しいとかまちがっているとか…そんなものをはさむ余地はないほど強いものなのではないか。


昔永山の著作をいくつか読んだときそんなことを考えさせられた。



だからといって、私は凶悪犯罪や殺人を容認しているわけではない。もちろん不良もチンピラも好きではない。
(以前みくしーに永山のことを書いたとき、そう誤解され非常にお叱りを受けたことがありますがご理解願います)




富島作品には脇役としてチンピラが出てくることが多いが、
これらがみんな吾郎と同じものを抱えていると思うと気がもたない。

しかしながら、作者の忠告に反し、吾郎に同情せざるをえないのである。



導入の「作者のことば」には


わたしは普通の市民として、けっして彼を容認していない。むしろ、嫌悪を感じることのほうが多い。
彼は現代の病根から育ってきたアブノーマルな魂なのだ。

ここに河原吾郎を主人公として、わたしは物語を展開させる。けっして不良礼賛ではないのである。
すべての人は、河原吾郎に嫌悪を感じ、彼を生んだ社会の病根について考えていただきたい念願からである。



とある。
何度もこの言葉に立ち返り、物語を読み進めた。



今は、吾郎のような境遇の子どもも少なくなり、
良雄や吾郎の両親のような人物はどちらかといえば非難される時代だろう。

しかし「不良」はいる。凶悪犯罪もある。
今の青少年の抱える心の闇は吾郎や永山のようなものなのだろうか。




もう一編…

<初雪の歌>

ヒロインの葉子が不良とまじめの中間?っぽいキャラクターなのが珍しい。

弘之の視点をメインに、偶然の出会い、『雪の記憶』っぽいエピソードなどを経て、
恋愛につきもののやきもちと思い込み、意地っぱり、ふてくされなどを描いた、
小さなきりぬきのようなお話でした。



2010年4月29日読了


※ところで作品中に「おまえはおれのスーちゃんなんだ」というセリフがあるが、キャンディーズのデビューは72年。
69年に出たコバルトブックスでは違うアイドルの名前だったと思われる。ご存知の方はご一報を。

※2010年7月29日追記 この件について情報いただきました

>>次は…『秘密はふたりのもの』


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