富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

ふたりだけの真珠

2010-03-21 00:16:12 | コバルト
集英社文庫 コバルトシリーズ 初版:昭和52年1月
カバー:・カット:毛利彰

<ふたりだけの真珠>

両親がいないという孤独を抱えたふたりがともに人生を歩みだそうとするまでのお話。


漁師の家に船子として働きながら定時制に通う一雄と、
「中将閣下」の孫として裕福な家に暮らす敬子が主人公なのだが、
ふたりの両親の物語もまた、重要なドラマとして描かれている。


ふたりの両親はともに、戦争、そして差別や迫害によりつらい人生を送っている。
戦争が家族や恋人をいやがおうにも引き裂き、その傷が癒えぬ間にまた、
追い討ちをかけるように封建的な差別に苦しめられるのである。


この部分はフィクションであれ、「戦争を知らない子供達」のまた子供である私の世代としては、
知っておかねばならないことだと思う。



さて、敬子は両親は死んだものと聞かされ、一見裕福で幸せな生活を送っていた。
しかし、母 佐江子が、原爆孤児であるがゆえ、夫の死後家から追い出され、
今なお生きているかもしれないことを知ると、当然ながら母への思慕がつのる。

対して両親の生き様を目の当たりにしてきた一雄は、社会の不条理を知り、
たくましく生きようとする確固とした意思をすでに持っている。


「考えたら、あなたのほうが気がらくかもしれない。
じぶんの孤独をはっきりと認めることができるんだから、じぶんに対しても人に対しても」



人間の価値は家柄でも学歴でもないことをふたりは知っている。
しかし、敬子はその価値を絶対とする世界で、
自らの孤独を隠して生きている。それがつらいのだ。


人間の幸せはどこにあるのかを探ろうとする二人の姿に読み手もまた考えさせられる。


さて、ストーリーは後半、「母探し」がメインになるが、
「また会う日に」のようになかなか会えなくてやきもきする。
(「わるいやつら」にも似た?展開があり、ちょっとダブった)

そしてあれれ…??ちょっとあっけないラスト。
「ふたりだけの“真珠”」のメタファーがはっきりするかと期待したのだが。


ところでこの話は、ふたりの恋心についてはあまり触れられていない。

自然な形で近づいていったふたりだが、
ふたりに共通するものは、両親への思慕、そして「孤独」だろう。
「孤独」における結びつきは、大人では傷のなめあいになりかねない。
その「孤独」にはどこかに憎しみが潜んでいるからだ。

そんな心配を感じさせないのは、ふたりが若く、
そしてこれから自分の足で人生を歩もうとする意思があるからだ。


ラストで敬子は


もういや。好きな人とは別れない。母とは別れない。一雄さんとも別れない……


と思い、一雄は


おれは勝ったぞ。やっぱり勝ったぞ。人生が信じられてきたぞ。
これからこの人といっしょに、東京でがんばるぞ!



と決心する。


ふたりはもう孤独ではない。そこからは恋を超えて「愛」をはぐくんでいくのだろう。



<サイン・ノート>


加藤一晴と津田英子のサインノートの形式をとった、ふたりの恋のお話。

読み始めたとき、電車の中で「うわ!」と声を出してしまった。
なぜだろう、またしても胸がときめいてしまったのだ。

サインノート(私の時はサイン帳といっていたが)は、
青春の思い出の記録であるとともに、別れの象徴でもあるからちょっと心さびしくなる。

 (ちなみに私は小学生の時サイン帳に「人のいやがることをいわないでください」と書かれた)



さて、まず加藤一晴のサインノート。
友人達の書き込みは友情にあふれていたり、嫌いだと言われてみたり、さりげない愛の告白があったりといろいろだ。

中には

マリヤさまに祈りなさい。F子
あなたはあなたが思っているほど、えらくはありません。無署名


なんてものもあり、笑ってしまう。


一晴は「頭がよく、情に厚く、それでいて既成の枠にとらわれまいとする」少年なのだろう。
富島作品ではおなじみの少年像が浮かび上がる。


そして、一晴は津田英子という少女に振られたらしい。
友人達はそれを笑ったり、励ましたり、怒ったりする書き込みをするのだが、最後にノートは英子の手に渡る。


そこで英子は告白する。英子は一晴が好きなのだ。
でも自分の中に他人が侵食してくるような、そんな感情が怖いのだ。


このごろ、わたしはわたしの主人公ではなくなったような不安にまつわりつかれています。
あなたがわたしの心の奥深くはいりこんでしまったのです。

わたしはチェホフの『可愛い女』になりたくないのです。

もうすこしだけでも、わたしはひとりでわたし自身で歩いていきたい。



いくつか今まで読んだ作品と矛盾するようなことも書かれているが、それは矛盾ではない。


英子へのノートには

きみはこれまで、冒険をしなさすぎだ。人間、ときには飛躍せねばならぬ。


こんな言葉もあるように、
英子は模範生であり、「いい子ぶって」いて、「いつも武装している」少女なのだ。


そんな英子に、自分のノートへの返信として一晴は語りかける。


ぼくはきみを奪いたいのではない。
ほくをきみに奪われたいのでもない。
きみとともに存在したいのだ。
人と人は、その交際が深まるにつれて、たがいに影響し合う。
多くの友人に恵まれたぼくは、彼らのそれぞれの個性の投射を受けて、ぼく自身を形成しつつある。
きみもやはりそうではないだろうか。




「朝雲の序曲」で、えり子が日記で書いていたのと共通している。

自分を大切にし、自分の足で歩いていくことは大切だ。
ただそれだけでは得られないものがあるのだ。



恋心とはつかみどころがない、何とも漠然としたものだ。
だからつい、臆してしまったり、「好きだ!」と単刀直入になったりする。

確かに恋愛は、直感的・本能的なもので、理屈で説明できるものではない。
けれども、だからといって「好きだ!」「愛している!」「そばにいたい!」
…もしくは「やりたい!」だけでは、何かさびしくはないか?

富島作品を読んでいて、いつかの恋心を思い出すとともに、いろいろなことについて考えさせられるのは、
その漠然とした部分を言葉で表現してくれているからではないかと思った。

それは自身の経験か、過去の名著によって導き出されたものかしらない。
ただ、「恋愛」とは何かを、若者は考え、学ばなければならないのではないだろうか。
それは恋愛を通して、深く人生や自分自身について考えることをも意味する。

富島作品を読んだ若者達は、小説のように魅力的な愛のことばを交わしたのだろうか。
それならばとてもうらやましく思う。


これからのぼくの人生はきみに大きく左右されるだろう。
そしてぼく自身もまた、きみに深く影を落としたいと思っている。



一晴のメッセージはこのように締めくくられている。
ふたりがどうなるか、それはわからない。
でも、こんなラブレターをもらったら、女の子はだまってはいられないだろう。


※ところでこの「サイン・ノート」の読後感はなんともいえない。まるで人間が死ぬときにふと思い出す記憶のような感じだ。「恋するまで」に入っていた「ぼくたちの彼女」も同じだった。これはなんだろう(まだ死にたくはないのだが)。



2010年3月20日読了


>>次は…「星と地の日記」