集英社文庫 コバルトシリーズ 初版:昭和54年11月
カバー・カット:金子優
※初出:秋元書房(1963年) (w)
<のぶ子の悲しみ>
のぶ子は炭鉱の町に、両親と幼い4人の兄弟とともに暮らしている。
不況は目に見えて人々の生活を圧迫した。購買所には食料品も入らなくなった。たまに入る痛んだ魚がごちそうである。
心を病んだもの、犯罪に手を染めたもの、いつしかクラスメートの何人かは姿を消した。
いよいよ閉山となり、のぶ子は担任の先生の紹介で、博多の川崎家で住み込みの女中をすることになる。
裕福な川崎家の人々との「価値観の相違」を感じつつも、
のぶ子は働きながら中学、定時制高校へ進み、自立への道を進んでいた。
そんな中、郷里から手紙が届く。母が病に倒れ、生活がどうにもならないというのだ。
のぶ子は高校で沢村という男性と出会い、恋がはじまったばかりだった。
のぶ子が発つ前、二人は互いの気持ちを言葉で確かめ合った。再会を約束して。
郷里に戻ると家族の生活はさらにすさんでいた。
生きる気力をなくした母。酒におぼれる父。盗みに走る弟。
昼も夜も働き、なんとか生活を立て直そうとするのぶ子。
そんなのぶ子に両親は「小料理屋」で働くことを勧める。
小料理屋に似使わない法外な給料。つまり両親はのぶ子を売ろうとしたのだ。
絶望に打ちひしがれるのぶ子。
のぶ子は懇願する両親を振り払い、博多に戻る。
しかしそこにはすでにのぶ子の居場所はなかった…。
題名の通り、「悲しい」話である。
でも、「夜明けの星」(2/14参照)より読後感は悪くないのだ。
それは、のぶ子の生きる強さが全体を通してはっきりしているからだろう。
のぶ子の周囲には、“弱い”人物が多く出てくる。
両親や町の人はもちろん、お金のために夜の街に入った同級生の和子。
元芸者で今はギャンブルにおぼれる川崎家のおばあさん。
おばあさんと対話したのぶ子が、人間の幸福について考えるところがある。
おばあさんのしあわせは、じぶんの生活を疑わなかった点にある。
考えることをやめてしまったからもたらされたものである。
世間の道徳は、おばあさんには通用しない。その道徳の裏側に生きてきたからである。
もしおばあさんの神経が道徳の要求するようなものであったら、おばあさんはまっ暗い不幸のなかに生きねばならない。
無意識のうちに、おばあさんはじぶんを護ったのだ。だから幸福であった。-豚のように。
のぶ子は決して堕落しまいと思ったのだ。
それは、自分に対する誇りがあったからだ。
のぶ子は沢村に対し、
あたしは、生まれかわるとしたら、やっぱりあたしに生まれかわりたい
と言う。
今までの日本の女の多くは、あまりにも自己犠牲の精神を植えつけられすぎた。
そんなの、のぶ子に用があるものか。人はまずじぶんのためにこそ生きる。
余力あらば、近い人から順に贈りものをする。
自分の価値を他人にゆだねるからこそ、偏見や一辺倒な価値観に負け、
人は自らを無価値な存在として落としめてしまうのだろう。
のぶ子は心のなかまで召使いになっていない。
のぶ子はのぶ子にとって女王なのだ。
人はどれだけ自分を尊いものとして受け入れているのだろうか。
ラストは死をも連想させる。しかしのぶ子が死ぬとは思えなかった。
それは、
(だれだって、あたしからあたしを奪うことができるものか)
このセリフから生命力と未来を感じ取ったからだ。
作中、のぶ子はあて名のない手紙を書いている。
それは誰にあてたものかわからない。「胸の奥に住む幻の像」にかもしれない、とあるだけだ。
それは今は亡き本当の父なのか、それともまだ見ぬ自分を理解してくれる素敵な男性か。
私はのぶ子の心の中には、「幸せなのぶ子」がいて、彼女に語りかけていたのではないのだろうか、と思う。
それは境遇やなにやら、そんなものに左右されない、つまりのぶ子の魂なのだ。
幸福も不幸も、その人の意識による。そして何を幸福とし、なにを不幸とするかが、
その人の価値を定める。
自分は幸福なのか?不幸なのか?
ここまで考えさせられた。
2010年2月28日読了
>>次は…「心に王冠を」
カバー・カット:金子優
※初出:秋元書房(1963年) (w)
<のぶ子の悲しみ>
のぶ子は炭鉱の町に、両親と幼い4人の兄弟とともに暮らしている。
不況は目に見えて人々の生活を圧迫した。購買所には食料品も入らなくなった。たまに入る痛んだ魚がごちそうである。
心を病んだもの、犯罪に手を染めたもの、いつしかクラスメートの何人かは姿を消した。
いよいよ閉山となり、のぶ子は担任の先生の紹介で、博多の川崎家で住み込みの女中をすることになる。
裕福な川崎家の人々との「価値観の相違」を感じつつも、
のぶ子は働きながら中学、定時制高校へ進み、自立への道を進んでいた。
そんな中、郷里から手紙が届く。母が病に倒れ、生活がどうにもならないというのだ。
のぶ子は高校で沢村という男性と出会い、恋がはじまったばかりだった。
のぶ子が発つ前、二人は互いの気持ちを言葉で確かめ合った。再会を約束して。
郷里に戻ると家族の生活はさらにすさんでいた。
生きる気力をなくした母。酒におぼれる父。盗みに走る弟。
昼も夜も働き、なんとか生活を立て直そうとするのぶ子。
そんなのぶ子に両親は「小料理屋」で働くことを勧める。
小料理屋に似使わない法外な給料。つまり両親はのぶ子を売ろうとしたのだ。
絶望に打ちひしがれるのぶ子。
のぶ子は懇願する両親を振り払い、博多に戻る。
しかしそこにはすでにのぶ子の居場所はなかった…。
題名の通り、「悲しい」話である。
でも、「夜明けの星」(2/14参照)より読後感は悪くないのだ。
それは、のぶ子の生きる強さが全体を通してはっきりしているからだろう。
のぶ子の周囲には、“弱い”人物が多く出てくる。
両親や町の人はもちろん、お金のために夜の街に入った同級生の和子。
元芸者で今はギャンブルにおぼれる川崎家のおばあさん。
おばあさんと対話したのぶ子が、人間の幸福について考えるところがある。
おばあさんのしあわせは、じぶんの生活を疑わなかった点にある。
考えることをやめてしまったからもたらされたものである。
世間の道徳は、おばあさんには通用しない。その道徳の裏側に生きてきたからである。
もしおばあさんの神経が道徳の要求するようなものであったら、おばあさんはまっ暗い不幸のなかに生きねばならない。
無意識のうちに、おばあさんはじぶんを護ったのだ。だから幸福であった。-豚のように。
のぶ子は決して堕落しまいと思ったのだ。
それは、自分に対する誇りがあったからだ。
のぶ子は沢村に対し、
あたしは、生まれかわるとしたら、やっぱりあたしに生まれかわりたい
と言う。
今までの日本の女の多くは、あまりにも自己犠牲の精神を植えつけられすぎた。
そんなの、のぶ子に用があるものか。人はまずじぶんのためにこそ生きる。
余力あらば、近い人から順に贈りものをする。
自分の価値を他人にゆだねるからこそ、偏見や一辺倒な価値観に負け、
人は自らを無価値な存在として落としめてしまうのだろう。
のぶ子は心のなかまで召使いになっていない。
のぶ子はのぶ子にとって女王なのだ。
人はどれだけ自分を尊いものとして受け入れているのだろうか。
ラストは死をも連想させる。しかしのぶ子が死ぬとは思えなかった。
それは、
(だれだって、あたしからあたしを奪うことができるものか)
このセリフから生命力と未来を感じ取ったからだ。
作中、のぶ子はあて名のない手紙を書いている。
それは誰にあてたものかわからない。「胸の奥に住む幻の像」にかもしれない、とあるだけだ。
それは今は亡き本当の父なのか、それともまだ見ぬ自分を理解してくれる素敵な男性か。
私はのぶ子の心の中には、「幸せなのぶ子」がいて、彼女に語りかけていたのではないのだろうか、と思う。
それは境遇やなにやら、そんなものに左右されない、つまりのぶ子の魂なのだ。
幸福も不幸も、その人の意識による。そして何を幸福とし、なにを不幸とするかが、
その人の価値を定める。
自分は幸福なのか?不幸なのか?
ここまで考えさせられた。
2010年2月28日読了
>>次は…「心に王冠を」