るんるんぴあの♪

ピアノレスナーERIKO。のつれづれ日記
大阪市都島区友渕町のピアノ教室です

流れのままに

2014-06-29 | 介護
続きです

翌朝、一晩線香守してくれていた長男とダンナが交代。
担当の方との打ち合わせ
事細かに決めていくので
すべて打ち合わせが終わったのは昼でした。
合間に必要な方に連絡。
不思議なことに今まで連絡の取れていなかった遠方の従姉妹と
昨日FBでつながったところでした。
こういうところにも偶然でなく必然を感じます。

湯灌は泡風呂でした。
義父と義母と父のときは黄緑色の入浴剤だったなぁとか
母が取りすがって泣いていたので家族は席をはずしたなぁとか
親を見送るのが今回最後なので、今までのことも合わせて思い出されます。

今回は私たちにも洗わせてもらえました。
具合が悪くなってからシャワー浴から清拭になり
湯船につかることが出来なくなっていたので、
ゆっくり浸かれて良かったねと言えました。
右足の包帯はもうはずさないままだったのが
痛々しくもあり、配慮も感じました。
お顔もかみそりで剃ってもらって、
不思議なことにしわがどんどんなくなっていく母。
もともと肌がきれいでほっぺはつるつるでしたが
どんどん若返ってキレイになっていきます。
あちらで父に見つけてもらわないとね。



お通夜告別式は、思いがけず多くの方においでいただきました。
急でしたのに連絡をまわしていただけたようで
ありがたかったです。
駆けつけてくださった生徒さん、電報や御花など
お心遣いありがとうございました。
またそれぞれの自分の居場所から祈って下さった方に
心から感謝申し上げます。

葬儀に関しての覚書はここで終わります。
後は胸に秘めておくこともありますし、
両親4人とも無事に見送れたこと。
とくに先の3人がぽっくり往生だった分、
母はがんばって生きて、私にいろいろな経験をさせてくれました。
人が老いて枯れていくことはどういうことかを
身体を張って私に教えてくれてことは
やはり親だから教えてもらえたと思います。


2006年から、介護のカテゴリーで
ずっと母とのことを何年も書いてきましたが
これでひとつ区切りになると思います。
いずれは自分もまた通っていく道ですし、
今自分が出来ることに毎日一生懸命向きあっていくことが
何よりと思わせていただきました。

お読みくださった方
辛気臭い記事にお付き合いくださり
まことにありがとうございました。






臨終のとき

2014-06-27 | 介護
続きです


私たち夫婦と長女が施設に到着したとき、
息子と妹家族はすでにいましたが、部屋の外で待たされていました。
看護士の方が身体を清拭し
もろもろの処置をして洋服に着替えさせている最中で、
医師が既に死亡診断書を書いて帰った後でした。

スタッフの方にお聞きしたら、
息をしているのを確認して
また10分後くらいに部屋をのぞいたら
息をしていなかったので、急いで連絡したとのこと。
苦しむ様子はなく、眠るがごとく静かに息を引き取ったそうです。
母の顔は穏やかで、ホッとしたような表情でした。
看護師さんがファンデーションと頬紅を貸してくださり、
妹が死化粧をしています。
そこへ杏奈が到着、もう動くことのない母に
全てを察し、すがり付いて号泣。
言葉もない私たちの代わりに
いっぱい泣いて御礼を言ってくれました。
一同で慈救の咒をお唱えして母の魂を送りました。
心に沁みました。

その一方で互助会にお迎えを頼み、
お寺さんにお通夜と葬儀と初七日の依頼の電話をかける。
私が泣くのはすべてが済んでから。
これから怒涛の三日間が始まるのです。
施設のスタッフにお願いして
霊安室で寝かせる布団を施設の方に用意してもらいまいした。
今まで使っていた掛け布団も寝台車に積み込んでもらいました。
自分の布団を持ち込まない場合は、
式場が用意するお布団もありますが、
12000円します。
ママゴメンね、ケチるわけじゃないですが
今まで使っていた布団を持っていくよ。

1時間ほどでお迎えの寝台車が来てくれました。
明日学校がある子達は家へ帰し、
大人だけで寝台車のあとを追いかけます。
霊安室に呼ばれると、もう母は休んでいました。、
白い布と銀欄の掛け物。やっぱりそうなのね、と現実を知る瞬間。
既に灯明とお線香があがっていました。

一晩起きての線香守りは、
「僕がおばあちゃんと一晩一緒にいるよ」と
長男がかって出てくれました。
長男はいつも母の肝心なときに寄り添って助けています。
初孫で可愛がられていたから、自然に出来るのでしょう。
ありがたいです。

私たちはいったん自宅へ戻り、身支度をし、
メールで連絡できるところは流し、
翌日朝から担当者と打ち合わせです。
お通夜が日曜の晩、月曜の昼が葬儀ということだけ
確認しました。
斎場はその時間だけバッチリ空いていたのです。
母の立てたスケジュールに沿えば大丈夫ねと思いました。

母のなくなる前のこと

2014-06-26 | 介護
FBにはちょくちょく書いていましたが、
やっとこちらのブログに書く気になりました。
自分の覚書の意味もあって記しておきます。

18日(水)
主人の妹を誘ってお見舞いにいく。
かつて母がしていたように、両手で肩を抱いて
「よくきたね~~~元気~~!?」と歓迎したように
今度は妹が何度もそのように母の肩を抱いて声をかけてくれた。
眠りつづけていた母が眼を開けた。
今までにないくらいじっと眼を開けて
心の中まで覗き込むように眼を合わせてくれた。
私が心の中で語りかけたことに
ちゃんと返事をしてくれて、
そして私に託されたことも感じ取れた。
妹にもそうして眼を合わせて何かを伝えたようでした。

こんなことは今までなかったので
これを口に出してしまうと母の命がもう長くないと言い切ってしまうようで
家族の誰にもこのことを言えなかったです。
でも今になって思えば、あの瞬間の通じ合いが母の遺言でした。
眼の色、表情、メッセージ、約束したこと
決して忘れません。

その翌日から、また母は眠り続ける人になりました。

20日(金)
夜6時ごろ会いに行きました。
ずっと眠っていて眼は開けませんでしたが
まだ普通に息をしていました。
耳は聞こえているはずなので、満州のCDをかけて
今日あったことや、これからのことなど話しかけました。
今までよりも少し息が弱い感じがしましたが、
よく寝てるからかなと思い直して部屋を出ました。

21日(土)
この日は私にしては珍しく何の予定も入っていない日でした。
施設訪問も今日はお休みして、少し身体を休めようと
家の中で出来ることをごそごそ片付け。
ふと思い出して母から引き継いだ書類を整理しているうちに
母が残してくれたこと、幼いときからのあれこれの場面などが
どんどん思い出されて、二日前の母のまなざしと重なってきました。
まだまだ受け継げていない自分、高慢で感謝が足りない自分
それでも託してくれたミッションをしっかりやっていかなくてはと
腹の底から湧いてくるような想いになりました。

夜8時
施設から電話。
「呼吸の確認が出来なくなりました。すぐ来ていただけますか」
急いでメールや電話しようとするけど
こんなときに限って携帯が立ち上がらなくて手間取る。
ダンナへの電話が留守電ばかりでつながらない。
父が倒れたときも私が電話を受けて
あわてて家族に知らせたなぁと
こんなときに昔のことを思い出す。

息子が一番近くに住んでいるので
とりあえず走ってもらうように連絡する。
長女、杏奈にも連絡が取れてそれぞれが施設へ向かう。
ダンナは町会の会議中。
やっとつながって帰宅し、施設へ向かう。
お互いに無言。
今日がその日だったのかと、
この後はどうしよう、と頭は回らないなりに
互助会とお寺さんの連絡先はちゃんと手につかんで出ていた。

 

母を見舞う

2014-06-11 | 介護
ほぼ毎日、母を見舞っている。
今日はダンナと妹と3人で。

今日は眼を開けて、私たちの話しかけに反応し、
手を動かしたり、うなずいたりしてくれた。


今日は頬に赤みが差し、
調子がよさそう。
身体を横向きにさせて、手足や背中をマッサージ。
同じ姿勢で寝たきりだもの、少しでも楽になってくれたらいいな。

母が4年前、デイサービスに行ってる頃に書いた七夕の短冊に
「日本一!美人になりますように!」
「字がきれいになりますように」
「家族が仲良く健康でありますように」
と願いが書いてあるのを見て
ほほえましく、ありがたく思う。
「美人になる」想いは杏奈が受け継いで、必死で実践していますよ。




ちゃんと話が通じているように
反応してくれるのでやっぱり魂で受け止めてくれてるとわかる。

みんなそれぞれ頑張っているからね!
今日もありがたい一日でした。


その後

2014-06-01 | 介護
やっぱり母のあのスゴイ引き寄せは
「私の元気な顔を見に来て!」だったのかな。
いや、「あなたたち、お顔を見せにいらっしゃい!」
だったのかも。

こんなに揃うなんて、
ちょっと嫌な予感が無きにしもあらずでしたが
案の定、母はその翌日からまた微熱続きで床についています。
点滴があまり効かないようで、
また医師からのお呼び出しがきました。

一日一日
できるだけのことを。。といっても
母の横にいて手足をさすったり、
母の喜ぶ話をしたり、歌を歌ったりくらいしかできませんが
悔いのないようにこれからの日々をすごしていきます。

昨日も今日も真夏のような暑さなので
少しでも水分を多く摂れるように、
時間をかけて話しかけながら一匙ずつ口へ入れてあげる。
まるで離乳食を食べさせているよう。
一匙ずつ食べさせるときに
食べやすい言葉かけや、歌や、食べるときの擬音が
口を付いて出てくる。
ああ、こうして私に食べさせてくれてたんだよね、
年を経て、思い出が重なって、そして逆転して
あらためて育てられてきた感謝がふつふつと沸いてくる。


こちらの言葉で表情が変わる。
ちゃんと聞こえているね。
なるべく通います。
現世にいて会えるうちに。


自分を励ましたくて、
帰りに阪神地下でケーニヒスクローネのカップゼリーを買いました。
めっちゃ贅沢!といつもなら買いもしないような
お高い美味しいお菓子ですが、
今日はそのパワーに励ましてもらいます。
こんなときだから食べられる!
それもいいじゃない。



母の引き寄せの力

2014-05-27 | 介護
金曜に施設から連絡が入り、
お呼び出しがあったことは
ここに書きました。
熱が続いて、足の壊疽も進み
どうも具合がよろしくないので
また日曜にお見舞いに。


東京のいとこが、前々から
月末におばさんの顔見に行くよと言ってたので
ぴったりのタイミング。
妹もこの日は出やすくて、3人で行こうとしていたら
杏奈からラインで「今日いく」と入ってきた。

じゃあ4人で、とホームに着いたところに
なんと信慶まで部屋にやってきた。
予定していてもこんなに面子が揃うことはなかったのに。

杏奈は「今日はうちひとりでも行こうと思ってた」
信慶は「おばあちゃんの夢を見たからいかなきゃって気になって。。」

こんなに集合している様子をネットでみて、
とても心配してくださったかたもいて、
本当にありがとうございます。
これは母の引き寄せです。

満州のCDをかけると
ぎゅっとつぶっていた眼を開け、
右手を動かし、
口を時々動かしている。
懐かしい思い出が駆け巡っているのかな。
とにかく反応が著しいので、
CDを日に一度はかけてもらえるように
お願いしてきました。

イヤホンで聞かせて耳元で歌ってあげると
口を動かしています。

もっと早くこのCDを見つけてあげたらよかったかな。
いや、このタイミングでも無駄ではない!
母の魂が安らぐひと時になりますように。
そして思いがけず、みんなでそろう時間をつくってくれて
さすが私の母でした。

2014-05-23 | 介護
しばらく更新していませんでした。

5月にはいってから、母の具合がよろしくありません。
今日は呼び出されて、ドクターと施設長と面談。


いまさら手術をして、身体に負担はかけたくありません。
枯れるように、灯火が消えるときまで、
見守っていきたいです。

耳元で歌ってあげても
今日は眼を開けてくれませんでした。
聞こえていたと思いますが。

満州のCDを見つけて買いました。
たしかに母が歌っていた曲がたくさん入っていました。
ぺちか、まちぼうけ
満州が舞台の歌だったんだ。

満州娘も満鉄社歌もありました。。
「水師営の会見」は10番くらいあるのを
満鉄会で歌うからと自分でピアノ伴奏して録音したっけ。
80歳過ぎてあの長い曲をノーミスで弾ききった集中力には
感心したことを思い出しました。

今度行ったら、歌ってあげよう。
母の心に届いたらいいな。。。

母の荷物

2014-04-14 | 介護
母の入所している施設から
着払いで荷物が届いた。

もう着られなくなった衣服、パジャマ、下着、靴。
着古しているものある中で
つい最近持っていったものが
ほとんど使われていない状態で混じっている。

歩きから車椅子へ
そして寝ている時間が長く。。と、
どんどん動けない方向へ状態が進んでいっている。

箱を開けて、衣服を広げて整理しながら
胸が詰まってくる。
何かとても申し訳ないようなことをしているような
罪悪感に執われる。


老いていくのは避けられないよね。
母の尊厳を最後まで保ってあげられますように。。。


退院後の母

2014-03-21 | 介護
退院後の母が気になって、パジャマを持ってホームへ。
車椅子に座りっぱなしだけでなく、ベッドで寝る時間を作ってと
お願いしていたので、ベッドで横になっていた。
20日間いなかった母が今までよりも手のかかる状態になって戻ってきて
スタッフの方も戸惑っているのではと思う。

顔を近づけて、眼を見て視線の中に割り込んで話しかける。
今日のことや、身体のこと、歌を歌ったりしていると
時々視線がしっかりして、ちゃんとうなずいて返事する。
足を持って「おいっちにっ、おいっちにっ」と足踏みのように
動かしてあげると、また表情が出てにっこりしたりうなずいたりした。

ホームでも手がかかるけどいろいろケアしてくれてる。
家族として施設の職員にお任せするだけでいいのか、
もっと頻繁に通ってなにか補うほうがいいのか、考えるところ。
今度のケアプランがでたら、こちらの要望と折り合うか
よく話をしてみようと思う。

とりあえず、壊疽が再発しないように
栄養面と床ずれなどに気をつけてもらえたらと思う。
パジャマや衣服も今までなら
トレーナーのようなかぶりの服でといっていたのに、
手が拘縮してきたので
前開きのパジャマや衣服に替えていってくださいとのこと。
だんだん状態が普通じゃなくなっていく。

幼稚園の先生や看護士をして、あんなにばりばり走り回っていたのに
今の姿からは想像できない。
母自身がこんなに自分が動けなくなるなんてと思っているだろうね。
もし頭がしっかりしていたら、口がしゃんしゃん利けたら
耐えられない状況だろうけど
それが感じられずに、不平不満も言わず、
「ありがとう」と「はーい」だけ言えるのは、
それなりにいいことなのかな。。。答えはないけど。。。





退院の日

2014-03-19 | 介護
朝医療センターへ。
母は私の気配に気付いて目を開けた。
「おはよう、今日は退院するよ。よかったねぇ」というと
眼をしっかり合わせて「はーい」と返事。
おおー今日は声が出るやん!

荷物をまとめ、支払いを済ませ、
証明書を貰い、医師と看護士からもろもろの説明を受けて
やるjことがいっぱい。
あっというまに介護タクシーの来る11時。
昨日退院用に買ったピンクの上着が明るい色でとても似合っている。
母はすっきりはっきりした色が好きだったから
元気だったらきっと気に入ったと言ってくれてるはず。

施設に着くと早速薬の確認。
明日はクリニックの往診なので再度確認してくれるはず。
目薬に飲み薬、注射。
本当にたくさん合って、これを毎度毎度するだけで大変。
私も母の家に朝昼晩の目薬と服薬と注射で
朝から晩まで貼り付けだったもの。
代わりに看てくれて、御飯も食べさせてくれて
本当にありがたいです。

入院した病院は近くて毎日通えたけど、
施設は少し遠いので毎日というわけにはいかないかな。
でも出来るだけ顔を見て、話しかけてあげたい。

お昼ごはんは刻み食で、上手に食べていました。
病院では全部おかゆととろみ食で
やっぱり味や形があるほうが美味しいよね。
傷が治るためにもしっかり栄養を取るようにといわれました。

いろいろ今後のことをスタッフの方にお願いして
私たちも安心したらとたんに空腹。
妹と桜川のロイホでランチをガッツり頂きました。


心斎橋で生徒の楽譜を物色しようと思ったが、
やっぱりもうくたくたで家へ直帰。
もう今日はじっとしてます。

今回はなんとか乗り切れました。
再発しませんように!
みなさま、祈ってくださってありがとうございました。



退院が決まりました

2014-03-18 | 介護
前回のブログからあっという間に一週間。
めまぐるしいったら、ありゃしない。
病院が近いおかげで、毎日通えて顔を見て
洗濯物交換したり、御飯食べさせたり散歩したり。
親孝行の真似事をさせてもらえた。

足の指の壊疽はもう治らないが、指の付け根までは血が通い、
炎症が引いてきて、心配していた足切断は免れました。
御飯をしっかり完食しているので
栄養が良く行き届いているのでしょう。

昨日はいいお天気だったので病院のお庭をお散歩しました。
この数週間で言葉が出なくなっているのが心配。
またしゃべれるようになってほしいなぁ。

明日は退院のあれこれで
レッスンお休みさせていただきますとメールしましたら
保護者の皆様、やさしく温かいお返事でありがたかったです。
来週はばりばりしごきますので、すみません。

2月3月と自分の身体も、母の身体もいろいろあって
気付きの多い時でした。
でも「何もないのが幸せ」ではなく
「何かあっても感謝で乗り越えさせていただけるのが幸せ」
と心底思いましたよ。
明日は朝からがんばりま~~す!


入院5日目

2014-03-04 | 介護
自分の声帯ポリープで声が出ないことなんか
どこかにふっとんでしまいました。
母のいわいる「糖尿病の足」が悪化して緊急入院。
小指が壊疽おこして、真っ黒に。
施設の医師が医療センターに連絡して、
即翌日に予約してくれたのが先週の話。

診察でちらっと見るなり
「うーん、切るなら足首かな、膝かな」
なんてえらいあっさり言うもんだから、
なんでやねん!ってなりますわ。

とりあえず、入院手続きをして
このままあっさり言われるままに足を切らせてなるものかと
思わず心の中でファイティングポーズ。

翌日本当にラッキーなことに
足を切るか、そのまま治療して枯れるに任せるか
しっかり方向性の腹決めができました。
家族でも話し合ったことそのままに、
この高齢な身体に切断手術はしたくないこと、
切ってそのときは良い様だが、後がよろしくないとの話も散見します。
医師にはこのまま治療を続けてほしいことを伝え、
そのように方針も定まってホッとしました。

長期戦覚悟です。
幸い病院は近いので毎日覗けます。
御飯も食べられるし、よかった!
でも足の処置は痛くて辛そう。
がんばって。。。!!


昨日今日は杏奈がお見舞いに行ってくれました。
孫パワーはすごい!
いつもよりたくさんニコニコしております~~。
ありがとう、ありがとうの連発で合掌する。
本当にわかって喜んでいるんだね。
これはまた杏奈にお見舞い行ってもらわねば!


さすがに今日はくたびれて
出張レッスン降りる駅で、乗り過ごすかと思った。
あぶね~~~!
スケジュールが数珠繋ぎですが、
なんとかお守りいただいて出来ています。
ひとつなにかやるごとに、感謝カンシャ。

入院の前に

2014-02-28 | 介護
朝からスケジュール分刻み。
もう流れるままに、やる!

もちろん今朝の素敵な朝ごはんのアップも忘れずに。

都島テレビ観て、行って用事して
自分の耳鼻科行って、吸入して
家に帰って書類作って
母の買い物して、合間にパン食べて
入院の荷造りして完了!
ぴったり正午。

さあ今から出陣じゃ~。

母を見舞う

2014-02-05 | 介護
出張レッスンの前の隙間時間に
ホームの母を見舞う。
節分は豆まきをして、恵方巻きに見立てたクレープ丸かぶり。
完食だったとのこと。
いろいろ行事をしてくれるのがありがたい。

一緒に歌おうねと
節分にちなんで豆まきの歌。

♪おっにはっそと~
 ふっくはっうち~~
 ぱらっぱらっぱらっぱらっまーめのおと~
 おーにはーこっそりにーげてーいく~~♪
一緒に歌ってくれるとは期待してなかったけど
大きな声を出して歌ったのでびっくり。
幼稚園の先生時代の歌はやっぱり覚えているなぁ。

乃木大将とステッセルの歌が10番くらいまであったのを歌っていたのに
私が覚えてないもんだから歌ってあげられない。
昔若い時代の歌は童謡だけではないし、
母はカンツォーネとかロシア民謡も大好きだったので
ちゃんと歌ってあげられるように下調べておかないとと思う。
山のようにあった母の音楽カセットも
引越しの際にかなり処分したので
少しくらいどこかにあるか、もう一度探してみようかと思う。

私が幼い頃、母が歌ってくれた子守唄。
コサックの子守唄や中国地方の子守唄を
今度は歌って聞かせる。
母は聞きながら眠ってしまった。
子守唄だもの、いい気持ちになって当然だけど。

母はかねがね言ってたこと。
「子どもに歌を歌って聞かせるとき、
絶対に音程を正しく歌って聞かせようとこころがけたよ。
耳が悪くなったらいけないから」と。
そして1歳半の頃の私がメロディの中の半音を
正しく取って歌えることを自慢していたっけ。

そのおかげで耳がいいかどうかは怪しいもんだが
音楽大好きになって、こうして今も音楽にかかわれていることは
母のおかげだと思う。

うつらうつらしている母に、
きれいに正しく心をこめて歌っていると
子ども時代の私と母が逆転したかのように錯覚する、
こうして毎日育ててくれていたんだな。。と。

おやつのぜんざいを一さじずつ食べさせて
美味しいねぇとかよく噛んでねと
声をかけながら食べさせるのも
こうしてもらったんだよと私が再確認するために
今やってるのだろうね。

グループホームに入居して3年。
細やかに診てもらい、心穏やかに暮らしていることに感謝。




認知症の星☆ハーモニカライブ

2013-12-20 | 介護
市村さんのお父様がまたまた都島にライブに来てくださるので
いってきましたよ!

デイサービス「おかえり」さんです。
ここの施設長のかたは
なんと以前からお知り合いの方でした!
都島区.TVと市村さんともつながり、
おおきな和になりましたよ。



今日は記念すべき50回目のライブということで
50曲演奏!
大丈夫なんかいな~??
と思いましたが、さすが認知症の星!
凄い集中力で50曲演奏しきりました!ぱちぱちぱち!




途中紙芝居や絵本読みきかせをはさんでの1時間半。
すごいな~~~

そこに居られた方々は、
めっちゃ元気をもらったのではと思います。

懐かしい50曲がはいった歌集は
勉強になるので頂きました。
市村さん、お父様の若本國雄様
どうぞいつまでもお元気でがんばってくださいね!

さてさて
51回目はどこかな~~。