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寺社縁起研究会・関東支部

@近畿大学東京センター

第103回例会

2011年04月23日 | 例会履歴

2011.04.23 近畿大学東京事務所

【研究発表1】東寺における資料管理―目録と寺誌を通じて―  貫井裕恵
【要旨】東寺(教王護国寺)には豊富な典籍・文書・記録類が伝来している。こうした資料は中世を通じてどのように管理されてきたのか。目録を手がかりに資料管理の主体と方法の変遷をたどりながら、南北朝期に成立した総合的寺誌『東宝記』に求められた機能を明らかにしたい。さらに、室町期東寺における資料管理体制の変化に及し、寺院運営のなかで寺誌がどのように利用されてきたのかについて考えてみたい。

【研究発表2】慶政像の生成―『沙石集』巻第十本ノ八「証月房遁世ノ事」を端緒として―  太田有希子
【要旨】『沙石集』には、慶政上人(1189-1268)に関する記述が散見される。慶政は、その著書『比良山古人霊託』(猪熊本)の勘注によって九条道家の実兄とされ、「九条家文書」等から、彼の宗教活動には道家との緊密な連繋が確認される。これらの活動からすかし見える慶政の〈世俗性〉と『沙石集』に描かれた慶政像とは小さからぬ懸隔がある。本発表では『沙石集』における慶政像とその生成要因等を検討し、彼の評価やその活動の意義について探ってみたい。


第102回例会

2011年01月28日 | 例会履歴
2011.01.28 早稲田大学早稲田キャンパス

【研究発表1】石山寺本尊「如意輪観音」像をめぐって  清水紀枝
【要旨】石山寺の当初の本尊は、右手を施無畏印、左手を膝上で与願印とし、左足を垂下する二臂像であった。『正倉院文書』等によれば本来の尊名は「観音」であった可能性が高いが、10世紀末の『三宝絵』以降、「如意輪観音」と称されるようになる。しかるにこのような姿の如意輪観音像は経典に説かれず、日本以外には作例が見当たらない。さらに東大寺大仏の左脇侍および岡寺本尊も、同じく施無畏印・与願印を結び片足を踏み下げる「観音」の像であったが、院政期の『図像抄』以降、やはり「如意輪観音」と呼ばれるようになる。本発表は石山寺本尊が「如意輪観音」と呼ばれ、さらにこの日本独自の「如意輪観音」像が東大寺や岡寺に伝播した経緯を明らかにしようとするものである。これらの寺院はいずれもある時期から真言宗と深い関わりをもっており、とりわけ石山寺と東大寺は醍醐寺僧が進出したことで知られている。醍醐寺は空海の孫弟子にあたる聖宝が如意輪観音を本尊として開創して以来、如意輪観音をとりわけ篤く信仰してきた寺院である。すなわち石山寺・東大寺・岡寺の「観音」像が「如意輪観音」と称されるようになった背景で、真言僧を中心とする人的ネットワークが果たした役割、および彼らの意図について論じたい。

【研究発表2】宮城県気仙沼市の観音寺縁起考  佐藤 優

【要旨】宮城県気仙沼市本町にある天台宗海岸山普門院観音寺は、『日本名刹大事典』に拠れば嘉祥3年(850)開創、円仁を開山僧とし本尊を聖観世音菩薩とする古刹である。この寺院は、近世期二種の縁起が伝承されていたことが以下二書を見るとわかる。一つは、菅江真澄が記した「はしのわかば続(仮題)」(天明6年(1786)7月24日条)の記述である。もう一方は、「当山観世音略縁起」(寛政2年(1790)3月)と題する略縁起である。二書の年記から判断するに、ほぼ同時代の縁起伝承としてよいだろう。さて、双方の縁起を比較すると観音寺は、皆鶴(みなつる)という義経の妾がこの地で横死を遂げたため、前者の縁起では義経自身が彼女の供養目的として寺院を建立したもの、後者の縁起では開基年代との関係からか本尊の観音像を義経が奉納したと主張している。そして、皆鶴の当地まで行程を、前者の縁起では「うつほ舟」に乗せられ当地まで流れ着いたとし、後者のそれは当地まで義経を自身の足で追ってきたとする。この皆鶴は、『義経記』巻2「義経鬼一法眼が所へ御出の事」に登場する鬼一法眼の娘に端を発し、概ね「皆鶴(みなつる)」と呼称される姫君として、お伽草子や歌舞伎『鬼一法眼三略巻』などで文芸化され、仮名草子『薄雪物語』では小野小町などと併称される美女としても造型された。そして、この皆鶴の伝承は気仙沼市の他、福島県会津若松市河東町藤倉地区では、近世初頭に伝説化していたことが『会津風土記』(寛文6年(1666)成立)の記述からわかる。また、白河市向寺地区の姫神社(えなひめじんじゃ)の創建由来としても伝えられている。そこで、本発表ではこうした皆鶴伝承のうち、近世期の寺院縁起に登場する気仙沼の皆鶴姫を具体的に取り上げ、気仙沼という地域性にも目配りしながら縁起における皆鶴姫の造型のされ方を考察してみたい。そして、現在気仙沼ではこの縁起伝承が民間レベルでどのような伝わり方をしているのかについてもふれ、その現代における意味づけも併せて試みてみたい。

第101回例会

2010年11月27日 | 例会履歴

2010.11.27 早稲田大学早稲田キャンパス

【研究発表1】五台山から来た仏牙舎利の行方―日宋交流と仏牙信仰―  大塚紀弘
【要旨】仏教信仰の拡大に伴って、仏舎利がアジア各地に広まっていく中、その希少性もあって、インド周辺の地域で格別の扱いを受けたのが仏陀の歯、すなわち仏牙舎利である。仏牙は仏舎利と同様、西域などを経て、ついに中国にまで到達する。さらに海を越えて日本にもたらされたとすると……。本報告では、日宋交流史の観点から、現在も京都市内の寺院に秘蔵されている2つの仏牙に焦点を当て、それらの来歴、特に日本に請来された経緯や相承の過程について考察したい。その結果、仏牙信仰が平安後期の入宋僧を介して、北宋から日本へと展開したことが明らかになるであろう。

【研究発表2】供養と観想としての飲食―南アジア密教における飲食実践―  杉木恒彦
【要旨】食事をどのように意味付けるかは、多くの宗教の重要関心事の1つである。インドでは古代バラモン教(ヒンドゥー教の前身)の時代から、飲食物を供物、それを消化する体内(胃)の熱を火神とする発想があった。この発想のもと、古代バラモン教以降のヒンドゥー教では、食事を火献供(護摩)にみたてる食事実践の体系が盛んに構築された。インド仏教では密教伝統が、以下の2つの方向性において、同様の試みを行った。すなわち、(1)食事は味覚の修行であり、かつ〈仏たちの曼荼羅〉として観念された修行者自身の身体に対する自己供養であるとする方向性と、(2)食事を自己供養とみなすと同時に、食物を妄分別の象徴とみなし、それが胃で消化されていく過程を“空”(大乗仏教の真理観)の観想の機会とする方向性である。仏教では開祖仏陀以降、食事は思考力と体力を維持するためのものであるというプラグマティックな意味付けが伝統的になされてきたが、密教伝統はそれに加えて供養と観想という意味付けを食事に与えたと言うことができる。


第100回記念例会

2010年07月31日 | 例会履歴

2010.07.31 早稲田大学早稲田キャンパス

【研究展望】寺社縁起研究の回顧と展望  藤巻和宏
【要旨】寺社縁起研究会・関東支部の前身である旧・寺社縁起研究会を藤巻が立ち上げたのが1998年4月。この12年間の歩みを、本研究会のみならず、国内外の寺社縁起研究の動向とともに振り返りつつ、これからの寺社縁起研究の展望についても、若干の私見を述べたい。縁起研究を、単に「寺社縁起」に分類される限定的な資料だけを対象とするものではなく、事物の起源をめぐる言説研究と捉え直し、その射程と可能性について考えてみたい。

【研究発表】笠寺観音縁起の展開 序説  徳田和夫
【要旨】寺社縁起のなかには、寺院の創建と本尊の霊験説話を、長大な物語草子のごとくに編み直したものがある。笠寺観音(天林山笠覆寺。真言宗。名古屋市)の縁起もその道程をたどっている。室町・桃山期のそれは、優に女性の栄達物語に成りおおせている。その事由は如何に。人物を特化して物語のヒロインとし、それを通じて結縁を勧めるとの構成は、時代の文芸動向を照らし合わせて考えてしかるべきである。また、それは信仰空間のオープン化(=参詣の大衆化)と連動したことでもあるだろう。


第99回例会

2010年06月25日 | 例会履歴

2010.06.25 早稲田大学早稲田キャンパス

【研究発表1】武蔵国秩父札所観音霊場の形成にみる中世後期禅宗の地方展開―特に曹洞宗正法寺末、広見寺とその末寺を中心に―  小野澤眞
【要旨】秩父三十四箇所札所観音霊場信仰は近世に盛行するが、その成立は中世に遡る。『長享番付』と通称される史料によると、長享二年(1488)にはすでに三十三番まで霊場が確立していた。この霊場は武甲山を中心とする修験者の活動を母体にしていたようである。他方で当地の領主、丹党中村氏は西遷御家人となり播磨国宍粟郡に所領を得たことで播磨と関係を生じ、これによって播磨国書写山を淵源とする秩父札所縁起が生成されたとみられている。さて秩父郡・市には曹洞宗寺院が異様なまでに多い。札所寺院をみても、曹洞宗寺院が大半で、あとは臨済宗と真言宗智豊両派である。具体的には陸奥国黒石正法寺の末寺である宮地広見寺が室町期に秩父盆地に入り、それを拠点に末寺が拡散していった。札所寺院も包摂している。禅宗が山岳や水の信仰と親和的であることが背景にある。このことは正法寺の『正法年譜住山記』で明らかとなった。そしてそれを有利に進めるために、妙見宮(現秩父神社)社家勢力との協調関係がみてとれる。秩父には時衆の在地宗教者たる鉦打も存在したが、浄土系寺院はわずか一箇寺しかない。こうした過程をたどることで、曹洞宗が新仏教として地方展開する手法の例証とすることができるのである。

【研究発表2】『八幡愚童訓』と『平家物語』―「宇佐行幸」と鳩の奇瑞の記事をめぐって―  鶴巻由美
【要旨】『平家物語』巻八の「宇佐行幸」は諸本によって位置は異なるが、皇位に関わる託宣を下す宇佐八幡神が平家一門を見放したことを託宣歌によって明示しており、『平家物語』には欠かせない章段と言える。永仁元年(1293)~正安二年(1300)にまとめられたとされる『八幡愚童訓』甲本にもほぼ同内容がみられるが、『尊円序注』などの歌徳説話では全く異なる内容(この託宣歌を稚児の歌とする)となっており、歌意からすると後者の方が自然であると思われる。同じ和歌を巡って、『平家物語』と歌徳説話の二種類の話が流布していた可能性を考えると、元寇に際して示された八幡の威徳を述べ、公武に対する軍注状的性格を持つ『八幡愚童訓』甲本にとっては「宇佐行幸」の話を採用する方がその編纂意図にかなうものであったためではないか。また、八幡の使者である鳩にまつわる奇瑞についても『八幡愚童訓』甲本と『平家物語』諸本とでは共通の認識を持つ場合もあるが、両書の内容は必ずしも一致するものではなく、『八幡愚童訓』にとって威徳を示すにたる記事を取捨選択したことがうかがえる。以上、本発表では『八幡愚童訓』が参照した可能性のある先行資料をもとに『八幡愚童訓』と『平家物語』の重層的な関係を論じていきたい。


第98回例会

2010年03月26日 | 例会履歴

2010.03.26 早稲田大学早稲田キャンパス

【研究発表1】『神道集』巻一「宇佐八幡事」をめぐって  有賀夏紀
【要旨】南北朝期ごろの成立とされる『神道集』は、中世における神仏習合思想の展開と受容をかんがえるうえで、重要な書のひとつである。従来の『神道集』研究では、いわゆる「物語的縁起」が中心的な課題であったが、『神道集』の約半数をしめる神道論や、神々の本地説を中核にすえた「公式的縁起」と称される章段は、いまだ十分な検討がなされていない。よって本発表では、「公式的縁起」のひとつである巻一「宇佐八幡事」にかんして、その信仰の様相をあきらかにするつもりである。

【研究発表2】日本平安期および中国往生伝における「匂い」  吉村晶子
【要旨】日本の平安期往生伝と、その頃までに成立していた5つの中国往生伝を取り上げ、そこにえがかれた「匂い」についての考察をおこなう。日本の往生伝の嚆矢『日本往生極楽記』は序文において、先行する中国往生伝『浄土論』『瑞応伝』の名をあげ、それらと同じ志のもとに撰述したものであることを述べている。このように日本の往生伝は中国往生伝の影響のもとに生まれたのであり、往生人の往生を確かならしめる奇瑞の数々も総じて類型的で共通することがらも多い。しかし、こと「匂い」についてみていくと、『浄土論』や『瑞応伝(往生西方浄土瑞応刪伝)』にはなく、『極楽記』以降の平安期往生伝にしばしばみられる「移り香」というモチーフの存在が注目される。発表者はこの「移り香」について、これまで日本の往生伝や高僧伝、太子伝などを中心に、聖性と匂いとの関わりについて考察してきたが、本発表では、『極楽記』序文のあげていないそのほかの中国往生伝や高僧伝などの匂いの描写も視野に入れた考察を行う。そもそも往生の匂いというイメージは、どのような背景のもとで成立し、広がり、日本へと渡ってきたのか。中国往生伝類における「匂い」のイメージと日本の平安期のそれとを比較検証するなかで明らかにしたい。


第97回例会

2010年02月04日 | 例会履歴

2010.02.04 早稲田大学早稲田キャンパス

【資料紹介】陽明文庫第30函「寺社関係資料」の紹介と検討  橋本正俊
【要旨】陽明文庫には、寺社縁起類を納める箱が蔵されていることが、これまで幾度か指摘されることがあった。発表者は一昨年、その箱にあたる第30函を調査する機会を得たので、その報告を行う。結論から言えば、この箱に納められる資料のうち縁起関係の資料は数点ではあるが、多くが寺社関係の記録類である。また、それらの資料のほとんどに、近衛家など江戸時代前期の近衛家当主が関わっており、第30函は「江戸時代前期の近衛家歴代が監督書写した寺社関係資料を納めた箱」と言える。これらの資料を概観し、その特徴について報告したい。

【研究発表】中世浄土宗の法談に関わる一資料(承空本私家集紙背文書より)  橋本正俊
【要旨】中世には、聖徳太子信仰と併せて善光寺信仰も高まる中で、聖徳太子と善光寺如来が往復書簡を交わしたという伝承が生まれ、広まっていった。この伝承について、発表者は何ら新しい見解を持たないが、近年紹介された冷泉家時雨亭文庫蔵「承空本私家集」の紙背文書に、この伝承を略述したものが確認される。この一群の私家集の書写に関与した承空は、鎌倉時代の浄土宗西山派の僧侶であり、同紙背には、他に「一言芳談」と共通する説話も記されていて、浄土宗の法談・唱導に関わるものかと思われる。本資料は最近影印刊行されたけれども、説話・仏教研究の方面ではあまり顧みられていないようであるので、紹介した上で若干の検討を加えたい。


第96回例会

2010年01月22日 | 例会履歴

2010.01.22 早稲田大学早稲田キャンパス

紹介と展望】長谷寺研究の現在―真言宗豊山派教師総合研修会参加報告を兼ねて―  藤巻和宏
【要旨】2009年12月11日、真言宗豊山派教師総合研修会に参加した。午前に藤巻が「縁起から見た長谷信仰」と題する基調講演をおこない、午後には「文化史から見た長谷信仰」というテーマでパネルディスカッションがおこなわれた。パネリストとそれぞれのテーマは、笹岡弘隆「歴史的観点から見た、長谷寺諸縁起類の成立と伝承、長谷信仰の展開」、藤巻「長谷寺霊験譚の勧進」、恋田知子「西国巡礼と長谷寺」、坂本正仁「江戸時代の長谷寺と本願・諸堂」である。これは宗派の教師を対象とした非公開行事であったが、宗派外から聴講を希望する声も多く、また、寺社縁起研究の面でも有益な議論がなされたので、本研究会において当日の講演・パネルディスカッション・質疑応答の内容を概説・紹介する。そのうえで、長谷寺研究の展望について若干の私見を述べたい。


第95回例会

2009年11月20日 | 例会履歴

2009.11.20 早稲田大学早稲田キャンパス

【研究発表】経から絵巻へ―経説絵巻としての「病草紙」―  山本聡美
【要旨】十二世紀末の成立と推定される「病草紙」は、従来典拠不明とされ、その主題も、六道絵の一部人道、症例集的な病の記録、説話に基づくものなどと多面的に推論されてきた。発表者は、本絵巻と書風・画風・料紙の寸法などで近しい「地獄草紙」「餓鬼草紙」の所依経典の一つ『正法念処経』に病に関する記述が多く含まれることに着目、「病草紙」の典拠もここにあると目している。今回の発表では、『正法念処経』経文と「病草紙」の詞書・絵を対照し、経文から絵巻が成立するプロセスに関する試論を提示する。その際、「地獄草紙」「餓鬼草紙」を参照することで、両絵巻における経文利用のあり方の延長線上に「病草紙」も位置づけられることが明らかになる。さらに「病草紙」における経文との対応関係には、段ごとにも違いがあり、本発表では現存二十一段を1)経文に準拠する段、2)経文から飛躍する段、3)経説をはなれて説話と融合する段、との三群に分類して分析する。以上の分析の結果、「地獄草紙」「餓鬼草紙」「病草紙」の順に経文からの懸隔が広がること、「病草紙」の中でも1)~3)の順に経説との隔たりが大きくなり、代わって説話的要素が増大することが分かる。つまり「病草紙」は、『正法念処経』という六道経典に基づく経説絵巻としての性質と説話絵巻の性質を兼ね備えたものであると、改めて位置づけることが可能となる。「病草紙」の成立する平安末期には、時を同じくして、縁起や高僧伝など日本で編まれたテキストに基づく絵巻が興隆して後の絵巻制作の主流を占めていくのであるが、本稿で取り上げた「病草紙」はまさに、古代と中世の転換期に現われ、経文から和製テキストへの移行期の様相を示す絵巻と位置づけることができると考えている。


第94回例会

2009年10月23日 | 例会履歴

2009.10.23 早稲田大学早稲田キャンパス

【研究発表】如意輪観音信仰と王権の関わりについて―後白河院を中心に―  清水紀枝
【要旨】平安時代初期、弘法大師空海は唐に渡って密教の正統な継承者となり、日本に様々な密教のほとけをもたらした。なかでも如意輪観音は、天皇の護持僧が行う三壇御修法や宮中で毎月行う観音供の本尊に選ばれるなど、王権ととりわけ強く結びついたことで知られる。しかし従来、その要因や具体的な信仰の様相については、ほとんど追究されてこなかった。如意輪観音信仰と王権の関わりを考えるにあたって、本発表では特に後白河院に注目したい。12世紀以降、如意輪観音はにわかに聖徳太子信仰と結びつき、太子に関わる仏像が次々に「如意輪観音」と称されるようになる。さらに、如意輪観音の象徴的な持物である如意宝珠への信仰が盛行するのもこの時期である。こうした新たな展開の背景に、後白河院および彼をめぐる人的ネットワークが関与していた可能性について論じたい。


第93回例会

2009年08月25日 | 例会履歴

2009.08.25 早稲田大学早稲田キャンパス

【研究発表1】辰狐と文殊―『神道集』における―  有賀夏紀
【要旨】『神道集』巻三「稲荷大明神事」は、ダキニ天(辰狐)とその眷属について細かに記載されていることから、中世の稲荷信仰を考察する際にしばしば言及されてきた。だが、本章段それ自体については、いまだ詳細な検討がなされていない。そこで本発表では、まず「稲荷大明神事」に反映されている当時のダキニ天信仰の様相を明らかにした上で、その本地説の特徴と叙述形式について言及する。そして、本章段を含めたいわゆる「公式的縁起」(儀軌的な記述が連なる章段)の位置づけを唱導という観点から再考することで、『神道集』を総体的に把握するための一視点を提示したい。

【研究発表2】『洛山寺海水観音空中舎利碑銘』から見た韓国仏教の海洋信仰  松本真輔
【要旨】韓国東海岸にある名刹洛山寺は、『華厳経』に依拠した観音信仰の拠点としてよく知られている。同寺には、1619年に再建された観音殿に関する『洛山寺海水観音空中舎利碑銘』と呼ばれる碑文と舎利塔が現存し、近年には「海水観音」と呼ばれる巨大な観音石像が建立されている。海水観音は、南海菩提庵、江華普門寺が韓国三大観音と言われ、これ以外にも、江華積石寺、南海竜宮寺等に存在している。その「起源」に関しては不明な部分も多いが、 おそらく水月観音から派生したものであろう(唐呉道子作と言われる図像も残されている)。本発表では、この洛山寺の観音信仰を中心に、韓国仏教の海洋信仰(当然補陀洛が関わる)について考えてみたい。 一般に韓国の仏教信仰は山岳の問題がよく言われるが、海との関わりを見ていく必要もあるだろう。


第92回例会

2009年07月17日 | 例会履歴

2009.07.17 早稲田大学早稲田キャンパス

【研究発表】「二十九ヶ条」にみる実忠の建築造営について―小塔殿の造営を中心に―  小岩正樹
【要旨】『東大寺要録』に所収されている「東大寺権別当実忠二十九ヶ条」は、実忠個人による生涯の業績が記された成功譚的な伝記として著名であるが、建築や仏像等の造営といった実務的な事項も多く挙げられていることから、その真偽のほどはありながらも、古代造営史において、僧侶による具体的な造営関与のあり方が窺い知れる貴重な史料としても意義が高い。本発表では、実忠が設計計画に携わった東大寺小塔殿の造営を中心に取り上げ、実忠個人が造営上果たした役割について、寺家や工匠組織などとの職掌関係を手掛かりに検討する。


第91回例会

2009年07月03日 | 例会履歴

2009.07.03 早稲田大学早稲田キャンパス

【研究発表】中世後期の東大寺西室について  西尾知己
【要旨】東大寺の西室は、貴種僧(有力公家子弟の僧)が主となった院家の一つである。西室については、16世紀前半頃の院主である公順が、実父の三条西実隆らとともに『八幡縁起絵巻』『大仏縁起絵巻』『二月堂縁起絵巻』の作成に深く関わりを持ったことでよく知られている。但し、公順も含めて中世後期における西室院主の動向は、文学史上での貢献にとどまらず、そのほかにも注目すべき点がある。彼らの動向を見てみると、当時の政治情勢の影響を強く受け、東大寺の運営に良きにつけ悪しきにつけさまざまな影響を与えたことがわかる。よってその動向は、当該期の政治権力と東大寺との関係を読み解く上で重要な手がかりを与えてくれるはずである。しかし、先行研究において西室の東大寺史上における位置付けは的確になされていないのが現状である。そこで本発表では、公顕・公恵・公順と相承される中世後期の西室院主と政治権力・寺家との関係を追うなかで、当該期の政治権力と東大寺との関係性の推移を明らかにしたい。また、そのなかで公順・実隆らによる縁起絵巻作成が東大寺史上においていかなる位置付けを与えられるのかという点についても言及したい。


第90回例会

2009年06月05日 | 例会履歴

2009.06.05 早稲田大学早稲田キャンパス

【研究発表】聖徳太子信仰における転生する太子のイメージと匂い  吉村晶子
【要旨】古代から中世の日本において、さまざまな広がりをみせた仏教的世界観のなかで、「聖なるもの」とかかわる「香」や「匂い」は、しばしば重要な役割を担っていた。太子信仰の画期をつくった『聖徳太子伝暦』以後、太子は、「香」や「匂い」と強烈に結びついて語られるようになる。聖徳太子と匂いとの深い関連づけは、もちろん、香が仏教とともに日本へ伝来したものであることともかかわるであろう。しかし、より深い考察を試みたなら、しばしば異常なほど長く残存し、移され、運ばれるものとされる仏教文学における匂いの特性と、転生によって絶えず太子という過去の存在を現在化する太子信仰のあり方とが重なり合ったところにこそ、太子信仰における「匂い」の突出した意味を見出すことができるのではないだろうか。本発表では、太子という信仰対象のイメージと、仏教的世界観における匂いのありようとの親和性を検討し、日本の古代・中世における匂いとは何か、という問題のその一面を明らかにしたい。


第89回例会

2009年05月08日 | 例会履歴

2009.05.08 早稲田大学早稲田キャンパス

【研究発表】談議所(学問寺)所蔵資料と近世の僧伝縁起―「頼賢」を軸に―  牧野和夫
【要旨】近世撰述の諸書にみる「頼賢」伝は、概ね『密教大辞典』の内容に類したもの(『続伝燈広録』所収頼賢伝など)である。その中で、慈猛ゆかりの地方寺院所蔵の下野薬師寺縁起類(二系統ある)に盛られた頼賢伝のみが、『密教大辞典』の内容と異なる独自の記述をもつ。室町末・近世初期書写の地方学問寺の縁起に、全く新しい頼賢伝が記されていた。この「異なり」を、近世の『続伝燈広録』や下野薬師寺縁起類へ至る過程にたどり、頼賢伝とその周辺の「残り方」(「消え方」)を考察する。近世の僧伝と寺院(特に談義所・学問寺)伝来資料との関わりの一つのケースを示したい。また、集古会との、わずかな縁についても話したい。