寺社縁起研究会・関東支部

@近畿大学東京センター

第101回例会

2010年11月27日 | 例会履歴

2010.11.27 早稲田大学早稲田キャンパス

【研究発表1】五台山から来た仏牙舎利の行方―日宋交流と仏牙信仰―  大塚紀弘
【要旨】仏教信仰の拡大に伴って、仏舎利がアジア各地に広まっていく中、その希少性もあって、インド周辺の地域で格別の扱いを受けたのが仏陀の歯、すなわち仏牙舎利である。仏牙は仏舎利と同様、西域などを経て、ついに中国にまで到達する。さらに海を越えて日本にもたらされたとすると……。本報告では、日宋交流史の観点から、現在も京都市内の寺院に秘蔵されている2つの仏牙に焦点を当て、それらの来歴、特に日本に請来された経緯や相承の過程について考察したい。その結果、仏牙信仰が平安後期の入宋僧を介して、北宋から日本へと展開したことが明らかになるであろう。

【研究発表2】供養と観想としての飲食―南アジア密教における飲食実践―  杉木恒彦
【要旨】食事をどのように意味付けるかは、多くの宗教の重要関心事の1つである。インドでは古代バラモン教(ヒンドゥー教の前身)の時代から、飲食物を供物、それを消化する体内(胃)の熱を火神とする発想があった。この発想のもと、古代バラモン教以降のヒンドゥー教では、食事を火献供(護摩)にみたてる食事実践の体系が盛んに構築された。インド仏教では密教伝統が、以下の2つの方向性において、同様の試みを行った。すなわち、(1)食事は味覚の修行であり、かつ〈仏たちの曼荼羅〉として観念された修行者自身の身体に対する自己供養であるとする方向性と、(2)食事を自己供養とみなすと同時に、食物を妄分別の象徴とみなし、それが胃で消化されていく過程を“空”(大乗仏教の真理観)の観想の機会とする方向性である。仏教では開祖仏陀以降、食事は思考力と体力を維持するためのものであるというプラグマティックな意味付けが伝統的になされてきたが、密教伝統はそれに加えて供養と観想という意味付けを食事に与えたと言うことができる。