寺社縁起研究会・関東支部

@近畿大学東京センター

第102回例会

2011年01月28日 | 例会履歴
2011.01.28 早稲田大学早稲田キャンパス

【研究発表1】石山寺本尊「如意輪観音」像をめぐって  清水紀枝
【要旨】石山寺の当初の本尊は、右手を施無畏印、左手を膝上で与願印とし、左足を垂下する二臂像であった。『正倉院文書』等によれば本来の尊名は「観音」であった可能性が高いが、10世紀末の『三宝絵』以降、「如意輪観音」と称されるようになる。しかるにこのような姿の如意輪観音像は経典に説かれず、日本以外には作例が見当たらない。さらに東大寺大仏の左脇侍および岡寺本尊も、同じく施無畏印・与願印を結び片足を踏み下げる「観音」の像であったが、院政期の『図像抄』以降、やはり「如意輪観音」と呼ばれるようになる。本発表は石山寺本尊が「如意輪観音」と呼ばれ、さらにこの日本独自の「如意輪観音」像が東大寺や岡寺に伝播した経緯を明らかにしようとするものである。これらの寺院はいずれもある時期から真言宗と深い関わりをもっており、とりわけ石山寺と東大寺は醍醐寺僧が進出したことで知られている。醍醐寺は空海の孫弟子にあたる聖宝が如意輪観音を本尊として開創して以来、如意輪観音をとりわけ篤く信仰してきた寺院である。すなわち石山寺・東大寺・岡寺の「観音」像が「如意輪観音」と称されるようになった背景で、真言僧を中心とする人的ネットワークが果たした役割、および彼らの意図について論じたい。

【研究発表2】宮城県気仙沼市の観音寺縁起考  佐藤 優

【要旨】宮城県気仙沼市本町にある天台宗海岸山普門院観音寺は、『日本名刹大事典』に拠れば嘉祥3年(850)開創、円仁を開山僧とし本尊を聖観世音菩薩とする古刹である。この寺院は、近世期二種の縁起が伝承されていたことが以下二書を見るとわかる。一つは、菅江真澄が記した「はしのわかば続(仮題)」(天明6年(1786)7月24日条)の記述である。もう一方は、「当山観世音略縁起」(寛政2年(1790)3月)と題する略縁起である。二書の年記から判断するに、ほぼ同時代の縁起伝承としてよいだろう。さて、双方の縁起を比較すると観音寺は、皆鶴(みなつる)という義経の妾がこの地で横死を遂げたため、前者の縁起では義経自身が彼女の供養目的として寺院を建立したもの、後者の縁起では開基年代との関係からか本尊の観音像を義経が奉納したと主張している。そして、皆鶴の当地まで行程を、前者の縁起では「うつほ舟」に乗せられ当地まで流れ着いたとし、後者のそれは当地まで義経を自身の足で追ってきたとする。この皆鶴は、『義経記』巻2「義経鬼一法眼が所へ御出の事」に登場する鬼一法眼の娘に端を発し、概ね「皆鶴(みなつる)」と呼称される姫君として、お伽草子や歌舞伎『鬼一法眼三略巻』などで文芸化され、仮名草子『薄雪物語』では小野小町などと併称される美女としても造型された。そして、この皆鶴の伝承は気仙沼市の他、福島県会津若松市河東町藤倉地区では、近世初頭に伝説化していたことが『会津風土記』(寛文6年(1666)成立)の記述からわかる。また、白河市向寺地区の姫神社(えなひめじんじゃ)の創建由来としても伝えられている。そこで、本発表ではこうした皆鶴伝承のうち、近世期の寺院縁起に登場する気仙沼の皆鶴姫を具体的に取り上げ、気仙沼という地域性にも目配りしながら縁起における皆鶴姫の造型のされ方を考察してみたい。そして、現在気仙沼ではこの縁起伝承が民間レベルでどのような伝わり方をしているのかについてもふれ、その現代における意味づけも併せて試みてみたい。