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「尊厳死」って何? ~ 射水市民病院、尊厳死疑惑

2006-04-02 23:17:56 | 最近思うこと
 富山県の射水市民病院で医師により患者の人工呼吸器が外され7人が死亡したと問題になっている。患者ないし家族の同意の有無、独断か複数の医師による判断か、そして殺人なのか尊厳死を助けただけなのか、といったことが議論になっているようだ。私は今回の射水の出来事について詳しく知らないが、ただ人工呼吸器を外すことを以って尊厳死と結び付けるのは短絡的な気がしてならない。

 確かに人工呼吸器に繋がれた死というのが人間の死としてどうかという気はする。助かる見込みがないのに、ただ延命のため気管の中にチューブを入れ人工呼吸器に繋ぐ。もう話すことはできないし、場合によっては意識すらなく、単に体が機能しているだけかもしれない。勿論、家族の心の整理のためこうした延命措置が必要な場合もあるだろう。又、ひどい話だが、現実には病院の経営上、こうした延命措置が望まれることがあるのかもしれない。しかし、尊厳死と延命措置を行うか否かというのは、まったく次元の違う話だと思う。

 人間は必ず死ぬ。いわば死ぬために生きているのである。だが、生の時間に限りがあればこそ、それは貴重かつ尊く、人は日々精一杯生きようとするものなのである。その中で、自らの死をどのように迎えるのか。突然の死であれば選択肢はないが、ある程度の時間があったとき、自分らしく、穏やかに死んで行く、それが尊厳死なのではないだろうか。反面、生に執着し、どんな形でも良いからとにかく生きていたいと延命措置を希望したからといって、それが尊厳死でないとは言えないだろう。物理的に人工呼吸器に繋がれている状態を以って人間の尊厳に係わるとは思わない。

 もう40年近く前の本だが、キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』という本がある。彼女は死を前にした末期の患者200人に直接インタビューし、人間の死に対する心理をまとめた。
 死ぬときの心理過程が次のように整理されている。自らの死を聞いたとき、人は衝撃を受け、まずはそれを否定する。嘘だ、そんなはずがない、と思うのである。次に怒り。なぜ自分が、どうしてだ、と怒る。そして取引。これはわかり難いが、苦しい治療に耐えればもう少し長く生きられる、といったものだ。これに続くのが鬱。つまり、病の圧倒的な力の前に無力感、喪失感、絶望感を感じるのである。最後が受容。文字通り、自分の死を事実として認める、淡々と受け入れることである。

 勿論、皆が皆、こうしたプロセスを辿るというのではない。家族や友人、医師や看護士などのスタッフ、ときには宗教かもしれないが、末期の患者に何らかの助け、支えがあれば、平和と威厳のうちに死を迎えることが出来るというのである。
 こう考えると、日本の場合、本人に黙ったまま家族にだけ告知するケースが多いようだが、尊厳死はまず患者への告知から始める必要があると思う。患者本人に正しく病状を告知し、死を受け入れることができるよう、家族や医療スタッフが協力できる体制を作ることが重要だ。人工呼吸器云々で騒ぐのではなく、終末医療のあり方こそ、もっと議論すべきである。

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