縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

魂の不死について

2006-04-09 23:45:00 | 最近思うこと
 皆さんは“魂の不死”を信じますか。そもそも考えたことなどありませんか。はたまた“魂”そのものの存在すら信じませんか。先週、尊厳死のことを書いたので、今日は関連して“魂の不死”について書く。

 私は、魂というものの存在、更にはその不死を信じている、いや、そうであれば良いと考えている。別にこれといった根拠があるわけではない。ただ、人間、死ねばそれですべて終わりというのではちょっと寂しい、次に新たな世界が存在した方が面白い、と思うからだ。根拠がないと言っても、サポート材料はいくつかある。以下、哲学者による証明と実体験、この二つを紹介する。

 まずはソクラテスによる証明。彼は想起説や可逆性・補償性などから魂の不死を証明している。
 想起説を簡単に言うと、おおよそ次のような内容である。人は、美そのものであるとか、善そのものといったものを完全な姿で感覚することはできない。にも拘わらず、人がその知識を持ち、かつそれを求めるということは、人がこの世に生まれる前にも魂が生きていて、既に完全な知識を持っていたからに違いない。この世で人は、もともと自分のものであった知識を改めて把握する、即ち想い出すに過ぎないのである。
 次に可逆性・補償性。覚醒から睡眠へ、睡眠から覚醒へといったように、相反するものは互いに相手から生じるのであり、各々から反対のものが生まれる。よって生から死への流れを補うものとして、当然死から生への流れがある。この流れ、生を実現するのが魂であり、魂は肉体とともに死滅するものではない。
 うーん、いずれもわかったような、わからないような話だ。反証も難しい。ソクラテスは人を煙に撒くのが得意なので、今の世の中に生きていれば詐欺師か政治家になっていたのではないだろうか、それも一流の。
(もっとも私の浅薄な知識でソクラテスの考えを正しくお伝えできたとは思わないので、できれば原典、プラトン著『パイドーン』をお読みいただきたい。)

 二つ目の実体験、臨死体験の話。私の体験ではない。海外も含む、多くの人達の経験である。臨死体験を経験した人の話には、面白いことに次のような共通点があると言われる。「トンネルや洞窟のような暗い通路にいる。その先にまばゆいばかりの光を感じる。人々の力、助けを感じる、それも既に死んだ肉親や友人などの。そして離れた場所から自分を見下ろしている自分を感じる。」など。
 これらは単に幻覚かもしれない。しかし、国や宗教の違いに拘わらず同じような経験をするというのには、未知の大きな力、あるいは違う世界の存在を考えずにはいられない。又、臨死体験の中には、目の見えない人が離脱体験の際の自分や周りの人達の様子を詳しく話した例もあるという。嘘か真か、ここまで来るとミステリーの世界だ。

 と、そんなこんなで“魂の不死”、結局、真偽のほどはわからない。死んでからのお楽しみ(?)ということか。もし死後の世界があるのなら、因果応報というし、人間として良い、立派な人生を送っておこう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。