私は、ほんとうにみじめな人間です。
だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
(ローマ書7-24・25)
人生の道の半ばで、正道を踏み外した(己の罪に苦しんだ)ダンテは、
理性の権化なるウェルギリウスに導かれて、地獄・煉獄を遍歴する。
地獄を降るごとに、より重き罪を犯した者が罰を受け、
最初は本能を制御できなかった者(淫乱・大食・貪欲)、
次に知能を正しく用いることのできなかった者(異端)が苦しみ、
そして最後に、意志を邪悪に売った者(殺人・偽善・裏切り)が裁かれ、
地獄の最深部ではサタンに食われる(イスカリオテの)ユダがいる。
地獄を抜ければ煉獄があり、そこは信仰の遅かった者が訓練を受ける。
そうやって善行を伴って後に、ダンテは天国に入場することとなる。
私はダンテを愛する、そして彼の大作「神曲」を好む。
しかし、私の良心の実験に照らしてみて、ダンテの神曲は不完全である。
人生の道の半ばで、正道を踏み外した私を導き給うたのは、
他ならぬイエス・キリストである。
彼の教え、彼の行いを見つつ、私は私の内にある罪を見て、
徐々に徐々に、私は地獄の最深部へ向かった。
ある時は彼の清き行いを見て、己の淫乱心を恥じ、
ある時は彼の柔和な態度を見て、己の憤怒の性に気づき、
ある時は彼の(神に対する)従順な生を見て、己の神に対する反逆心を自覚した。
そして神の啓示により、彼を裏切り、彼を十字架につけたのは私だと知った時、
私はついに地獄の最深部に到達したのである。
そこにいたのは、サタンと罰せられるユダでなくして、
十字架につけられたキリストと私である。
矛盾した話だが、私は私の内に地獄の最深部を見て、
キリストが他ならぬ私の罪を購ったことを知ったのだった。
救われて後、ダンテのように煉獄山で道徳的向上を果たせたかというと、
決してそんなことはない。
信仰をもって過ごせども過ごせども、私の内には未だに罪がある。
それを発見する毎日の連続でしかない。
もしダンテの言うように、善行を伴った信仰なくして天国に入れないのならば、
私は千年待っても天国に入れないのは火を見るより明らかだ。
しかし私は善行によって救われない、イエス・キリストの功によって救われる。
私があのことこのことを為したから、または為さないから、
私の救いが左右されるのではない。
もう救いは定まったものである。
思想として見れば危険といえば危険である。しかし事実だからしょうがない。
理性(ウェルギリウス)は人に罪を教えない。人に罪を自覚させるのはキリストである。
救われるのは天国でではない。人が救われるのは地獄の最深部である。
救われて後、己を鍛えて天国に備える必要はない。
キリストの十字架が天国の扉を開く。
ダンテの整然たる信仰的著述は、一読・ニ読・三読する価値のあるものである。
しかし良心の実験に照らしてみて、必ずしも正しいものではない。
(トマス・アキナスの神学に支配されていた時代の限界である)
ダンテが再びあらわれて、新しき神曲を執筆するとしたら、
彼はイエス・キリストに導かれて、地獄の絶下において天国を描くのだと思う。
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だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
(ローマ書7-24・25)
人生の道の半ばで、正道を踏み外した(己の罪に苦しんだ)ダンテは、
理性の権化なるウェルギリウスに導かれて、地獄・煉獄を遍歴する。
地獄を降るごとに、より重き罪を犯した者が罰を受け、
最初は本能を制御できなかった者(淫乱・大食・貪欲)、
次に知能を正しく用いることのできなかった者(異端)が苦しみ、
そして最後に、意志を邪悪に売った者(殺人・偽善・裏切り)が裁かれ、
地獄の最深部ではサタンに食われる(イスカリオテの)ユダがいる。
地獄を抜ければ煉獄があり、そこは信仰の遅かった者が訓練を受ける。
そうやって善行を伴って後に、ダンテは天国に入場することとなる。
私はダンテを愛する、そして彼の大作「神曲」を好む。
しかし、私の良心の実験に照らしてみて、ダンテの神曲は不完全である。
人生の道の半ばで、正道を踏み外した私を導き給うたのは、
他ならぬイエス・キリストである。
彼の教え、彼の行いを見つつ、私は私の内にある罪を見て、
徐々に徐々に、私は地獄の最深部へ向かった。
ある時は彼の清き行いを見て、己の淫乱心を恥じ、
ある時は彼の柔和な態度を見て、己の憤怒の性に気づき、
ある時は彼の(神に対する)従順な生を見て、己の神に対する反逆心を自覚した。
そして神の啓示により、彼を裏切り、彼を十字架につけたのは私だと知った時、
私はついに地獄の最深部に到達したのである。
そこにいたのは、サタンと罰せられるユダでなくして、
十字架につけられたキリストと私である。
矛盾した話だが、私は私の内に地獄の最深部を見て、
キリストが他ならぬ私の罪を購ったことを知ったのだった。
救われて後、ダンテのように煉獄山で道徳的向上を果たせたかというと、
決してそんなことはない。
信仰をもって過ごせども過ごせども、私の内には未だに罪がある。
それを発見する毎日の連続でしかない。
もしダンテの言うように、善行を伴った信仰なくして天国に入れないのならば、
私は千年待っても天国に入れないのは火を見るより明らかだ。
しかし私は善行によって救われない、イエス・キリストの功によって救われる。
私があのことこのことを為したから、または為さないから、
私の救いが左右されるのではない。
もう救いは定まったものである。
思想として見れば危険といえば危険である。しかし事実だからしょうがない。
理性(ウェルギリウス)は人に罪を教えない。人に罪を自覚させるのはキリストである。
救われるのは天国でではない。人が救われるのは地獄の最深部である。
救われて後、己を鍛えて天国に備える必要はない。
キリストの十字架が天国の扉を開く。
ダンテの整然たる信仰的著述は、一読・ニ読・三読する価値のあるものである。
しかし良心の実験に照らしてみて、必ずしも正しいものではない。
(トマス・アキナスの神学に支配されていた時代の限界である)
ダンテが再びあらわれて、新しき神曲を執筆するとしたら、
彼はイエス・キリストに導かれて、地獄の絶下において天国を描くのだと思う。
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「アーメン」が言いたくて、つい書き込みをさせていただきました。
地獄の最深部・・・。
これが理解できたとき、キリストが十字架上で隣の犯罪人(わたし)に「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」といわれた言葉が命の水となってわたしをみたしてくれました。
ただただ、感謝することしかできません・・・。