ここではないどこかへ -Anywhere But Here-

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走ることについて語るときに僕の語ること/村上春樹

2007-12-04 06:01:32 | 
日常的に長距離を走っていると、「すごいね」とか「どうして走っているの?」というようなことをよく聞かれる。
「すごいね」も「どうして」も半分はそんなわざわざ苦しい酔狂なことをやって何が面白いのかという
嘲りのようなニュアンスも含まれていたりする。
親しい人のなかにはもっと意地悪に「何が面白いの?」と聞いてくる人もいる。

そんな時僕はいつも的確な答えを返すのに窮する。
なぜ走るのか、走るのはどうして楽しいのかを走らない人に言葉で説明する術を持たないからだ。
それでもまだ日常的に走っている人とは、うまく言葉にできなくても共感し合える部分というのがある。
結局その答えはやはり走ってみなければ分からないということになる。
だから僕はそのような質問を受けたときにはこう答える。
「走ってみれば分かるよ」と。

ここふた月ほど膝を痛めてしまって走れない。日常生活を送る分には問題のないところまで回復してきたが、
毎日律儀に治療に通っては包帯やサポーターで膝をがっちり固めている。
傍から見たらそんなことをよく根気よく続けていると思われるかもしれない。
放って置いても日常生活に不都合はないのだから、自分でもよくやるよなと思う。
それもこれも早く走り始めたいという思いからだ。
走ることが生活の一部になってしまっていたことを改めて実感した瞬間でもある。

さて、小説家の村上春樹がランナーであることはよく知られているが、
彼がなぜ日常的に走っているかについては今まであまり語られてこなかった。
もともと自身のことについて語ることの少なかった作家だが、そんな彼がフルマラソンを年に1回は走り、
ウルトラマラソンやトライアスロンにも挑戦したというのは、作品から立ち上がってくる著者の雰囲気からするとギャップが大きい。
彼はそんなにタフにトレーニングを続ける体育会系の小説家という感じではない。

この本には走ることを契機として自らの小説家としての来し方が語られている。
走ることを語ろうとするとそれは小説家としての自分の生き方をおのずと語ることになる。
つまりこの人にとっても走るということは日常的な営為ということなのだ。
何も走ることを人生にたとえるというような大仰なメタファーではなくて・・・。

僕はなぜ走るのかということに的確な回答を見出せずにいる。どうしても適当な答えや説明ができずにいる。
しかしながらここで村上春樹が語っている走ることについての彼の思いの多くには共鳴できる部分が多い。
彼は職業小説家として、自らに課したそのミッションに対して忠実にそして誠実であろうとする。
小説家としてストイックな姿勢を保とうとする。
小説を書き続けるということは圧倒的に肉体的な忍従を強いられる作業なのだそうだ。
知的生産活動だと思われがちな小説の執筆も、実はそれを支える体力がなければ到底長続きはしない。
だから、彼はその書き続けるための最低限の体力を維持し続けることを第一の目標として走り始めたのだ。
僕はもちろん小説家ではないからそこのところはよく分からないけれども、長距離ランナーとしておおよそ共感できるのは次のような下りだ。

『でも「苦しい」というのは、こういうスポーツにとっては前提条件みたいなものである。
もし苦痛というものがそこに関与しなかったら、いったい誰がわざわざトライアスロンやらフル・マラソンなんていう、手間と時間のかかるスポーツに挑むだろう?
苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、
自分が生きているというたしかな実感を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見出すことができるのだ。
生きることのクオリティーは、成績や数字や順位といった固定的なものにではなく、
行為そのものの中に流動的に内包されているのだと言う認識に(うまくいけばということだが)たどり着くこともできる。』

『・・・結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。
そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。
たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。』(本文より)

冒頭の質問に対して村上春樹はそう答えてくれた。ランナーとしてそれは腑に落ちる。
そう、すべては走ってみれば分かる。


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