ここではないどこかへ -Anywhere But Here-

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Joao Gilbertoコンサート(丸の内・東京国際フォーラム ホールA)

2006-11-10 01:01:18 | 音楽
Joao Gilbertoの「最後の奇跡」と銘打たれたコンサート。
2003年の初来日以来、日本と日本のファンにすっかり魅了されてしまったJoaoの3回目の来日公演の千秋楽を見に行ってきた。
年齢的にもこれが最後かもしれないということでこんなサブタイトルがつけられたのだろう。

チケットには「出演者の都合により開演時間が遅れる場合があります」との注意書きがしてある。
そして会場に入ると、「本人の希望で公演中は空調をオフにするので、云々」との看板が出ている。
なんだか面白そうな展開だ。

Joao Gilbertoは完璧主義者だそうだが、それにしても大きな会場で聞こえるかどうか分からない空調まで切ってしまえとは面白いではないか。期待が膨らむ。

そして、開演時間はチケット記載のとおり何と開演時間からきっかり1時間遅れでスタートした。
待ち時間の間、今ホテルを出ましたとか、今会場に到着しましたとか、アナウンスが入る。
アーティストの動静をいちいち伝えるコンサートなんて初めてだ。放送のたびに会場に苦笑がもれる。
このあたりの感覚はブラジル人なのだろう。こんなことで怒っていてはいけない。
それにしても、時間はルーズなのに空調を切るほど音に敏感という、この著しくバランスを欠いた感覚というのがいい。
日本人にはこういうバランス感覚はない。そこが面白い。

20時。ようやくコンサートが幕を開ける。
空調の電源を切るだけあって、フィンガー・ピッキングのアコースティック・ギター1本とささやくようなヴォーカルでは、
しわぶきひとつできないほどの緊張感が漂う。
私は端のドアの近くに座っていたが、実際遅れてくる人たちのドアの開閉音が気になるほどだ。

音楽の内容からいって、国際フォーラムのキャパは大きすぎるような気がする。
Joaoのこだわりも理解できなくはないが、これだけのオーディエンスがいるとそこから発せられるノイズがちょっとしたことで進行の妨げになってしまい、
あまり意味がないようにも思えるのだ。
もっと小さい小屋の方がいいのだろうが、
5000のキャパが連日埋まるということであれば本人の年齢的なことを考えても仕方がなかったのだろう。
個人的には中野サンプラザぐらいのキャパが精一杯なような気がした。

彼のギターと声だけで一瞬にして会場の雰囲気が変わってしまう。
5000人が75才を超えた一人の老音楽家の奏でるギター1本と声だけの演奏で
一気に違う場所に連れて行ってもらえるのだから、ただただ感嘆するだけだ。

ボサ・ノヴァは濃淡の濃い音楽だと思う。
マイナーからメジャーにいくときのコントラストが木漏れ日の光と影のようにくっきりとしている。
私はどちらかというとその深いブルーに魅せられているのかもしれない。

その光と影をJoaoはこともなげに淡々と繰り広げていく。
血肉という言葉がふさわしいほどに、なんの衒いもなく奏でられる音楽は一切の思考から隔絶されて、あるがままの姿を提示する。
あたかもJoao自身がボサ・ノヴァそのものであるかのように。

ボサは私にとっては何度も何度も繰り返して聴くような音楽だ。
だから今日のようにかなりの緊張感を持って対峙した2時間あまりは正直なところ結構疲れた。
ある意味でこんなに緊張感と疲労感の残ったライブは初めてだったかもしれない。

Joaoは日本のオーディエンスを絶賛している。
例えばそれは奥ゆかしさだったり、温かみだったりするのだろう。
今日の観客も最後は会場中がスタンディング・オベーションで賛美したが
彼はそうした、ほのぼのとした奥ゆかしさの中にあるほのかなぬくもりを感じたのかもしれない。
欧米ではとてもこうはいかないだろう。
日本のオーディエンスの精神性の高さも垣間見られたようなコンサートだった。