七人御先(みさき) 七人の幽霊 「土佐風俗と伝説」 幽霊と物の怪(もののけ)1
2025.4
今は昔、天正十六年、
長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)が全盛の頃であった。
家督相続の問題に異論を唱えたことがあって、高岡郡の蓮池城主の吉良 左京進 親実が切腹することとなった。
その同輩や従臣の七人が、皆殺された。その人々は、宗安寺 真西堂、氷吉 飛騨守、勝賀野 次郎兵衛、吉良 彦太夫、城内太守坊、日和 与三左衛門、小島 甚四郎であった。
この時より、夜な夜なこの七人の亡魂が、白装束で生前のように刀槍を携え、仁淀川の渡を声を出しながら渡り、岡豊(おかう:元親居城)に赴くとの噂が立った。
世にこれを七人御先(みさき)と言い、彼らに逢えば、たちまちに大熱を発し、あるいは大病となって死ぬと伝えられ、人々は大いに恐怖した。
その後、お宮を建てて神として祭った。その禍(わざわい)がやんだ。
しかし、今でも人が突然に熱病にかかると、陰陽師は御先(みさき)の行逢(イキアイか?)と称して祈祷し、除霊する習慣がある。
又、高知の旧天神橋通りを、まっすぐに少しも曲らず北に行くと、首無しの馬に乗った人に出逢う、と言い伝えられている。
これも長曾我部時代の幽鬼であると見られる。
そこで大抵の人は、この道を行く時、どこかで道を曲がる。
以上
「土佐風俗と伝説」 幽霊と物の怪(もののけ)より