槇山(まきやま)の蛇釜の淵 「土佐風俗と伝説」より
2023.4
今は昔、香美郡(こうみぐん)槙山村岡内(まきのやまむらおかのうち)に大きな池があった。
大蛇がここに棲み、埋め立てることが出来なかった。
ある時、平家の武士の宗石権守が戦に敗れて落ちて来て、大蛇を退治しようとした。
手飼の名犬を連れ、名剣を口にくわえ、七日七夜池の中を泳ぎまわった。
流石の大蛇もその勢いに恐れ、二匹の児蛇をつれて、どことも無く去っていった。
しかし、あわてて、一匹の小蛇を池の下の谷間に残していった。
権守(ごんのかみ)は、このようにして池を埋め立て、六反六畝の農地を得て、民の益をなすこと、極めて大であった。
しかし、後世に至り、その残されたる児蛇も年と共に成長し、又その子孫も出産繁昌した。
後の宝暦(ほうれき)年間(1751~1764年)に、加賀の国(石川県)より蛇釣りに巧みなる人が来た。
同所の誓渡寺(せいどじ:高知県香美市)と言う寺院の庭に、その術を以って淵に住んでいた蛇を呼び集めた。
その数は九十九匹いたそうである。
その中の親蛇の長さは七尋(ひろ:大人が両手を広げた長さ)あった、その他は、皆二尋三尋の児蛇のみ
であって、すべて元の池へ放った。
今なお、その淵に数多くの蛇が棲んでいるといわれている。
権守の事績を、土地の人々は忘れず、池の明神と称し、同所の氏神の側に小さな社を建立してを祭った。又、その従った犬も、犬塚と言って傍に祭ってある。
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