天狗に裂かれし女 「土佐風俗と伝説」 天狗怪禽
2024.6
今は昔.安政五年(1858年)の頃だそうである。
高岡郡岩目地(いわめぢ:今の加茂村)の婦人が、天狗につかまれて、ある木の山で引き裂かれて、その死骸が松の枝に掛かっていた。
その事が、真覚寺日記の安政五年二月六日の條に記されている。
当時、大いに、噂されていた、と。
天狗に裂かれし女 「土佐風俗と伝説」 天狗怪禽
2024.6
今は昔.安政五年(1858年)の頃だそうである。
高岡郡岩目地(いわめぢ:今の加茂村)の婦人が、天狗につかまれて、ある木の山で引き裂かれて、その死骸が松の枝に掛かっていた。
その事が、真覚寺日記の安政五年二月六日の條に記されている。
当時、大いに、噂されていた、と。
天狗に浚(さら)われた村娘 「土佐風俗と伝説」天狗怪禽
2024.6
今は昔、安政三年(1856年)三月の頃、高岡郡宇佐村字芝に一人の娘がいた。
同郡の日下(くさか)村に下女奉公をしていた。
ある夜、たちまち天狗にさらわれ、空中を飛び、その夜宇佐村の我が家の近くへ連れられて来て、おろされた。
そして、その娘の衣類の袂(たもと)に、椿の葉などが沢山入っていた。
又、数日は、魚の臭気を大にいやがった、とのことである。
後日、その娘に様子を聞くと、振袖を来た美人が誘いに来て、大内(おうち)堤の上を通ったことは、はっきりと覚えていた、とのことであった。
上の山の天狗 「土佐風俗と伝説」 天狗怪禽
2024.6
今は昔、土佐郡薊野(あざみの)村に斎藤平兵衛実純(谷秦山の門人)と言う大胆な武士がいた。
ある年の正月に、上の山と言う深山の奥深くに鴨打ちに行った。山路をたどりたどりして、ふと黒味の林へ入った。
老木が森々(しんしん)と打ち茂がり、昼も寂しい様であるが、ここは昔からの魔所であった。
ふと頭の上に、大きな鳥の羽音が聞こえた。
不思議に思い、見上げた所、丁度、長さは五尋程(ごひろほど:7.5m位か?)の翼をひろげた鳥の様な大きな物が、ふわりと樹上に止まっていた。
流石(さすが)の平兵衛も気味悪くなり、鴨打ちどころか銃を小脇に抱えて一目散に山を下った。
その後、平兵衛はこの日の怪鳥のことを人に話した。この世の中に、天拘と言うものは無いと思っていたが、そのように言い切ることは出来ない、と常に物語った。
天狗の姿の出典
天狗の姿は、今一般的には、鼻が長く、修験道の山伏のような姿をしているとされている。
では、この姿は、どこから来たのだろうか?
この答は、「青栗園随筆」にある。
以下
天狗は、中国の書には、星の名である、としている。
(訳者注:天狗星≒流れ星)
「博聞録」に、山陰に獣あり。狸蛇に似ている。、これを名づけて天狗と言う。
又、杜工部(杜甫のこと。唐代の詩人)には、「天狗の賦」がある。これまた天狗とは、猛獣の事である。
日本では天狗は、人の顔をしている。しかし、見た者はいない。
狩野元信(画家)は、鞍馬山の多聞天の安置しているお堂で、夜通し起きていて、明け方に障子に映った、その天狗の影をみた。そして、それを絵にかいた。
それが始めて今の天狗のをに描いた、との事である。
この画は、今も多門天のお堂にある。
この像は、修験者の姿である。
それ故、太郎坊次郎坊など山伏の名に準じて、好事の者が呼びならわしたのであろう。
以上、「青栗園随筆」-広文庫より