『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

陰暦1月17日 磐城四観音

2010年01月16日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月17日の項には、
次のような記述がある。

磐城四観音ト称スルハ、
第一番、平北目如意輪觀音、
第二番ハ城南半里許、上荒川村藏勝寺天津(アマツ)観音ニテ、
大同元年、一大師ノ開創、手刻ナリ。
堂領御朱印五石アリ。
第三番ハ石森觀音、第四番ハ城南半里許、
北郷下綴村ノ童(ワラフ)堂觀音ナリ。
相傳フ、童子戯ニ沙土ヲ以テ佛塔ヲ作リシヨリ起ル。
故ニ童堂トイフト。
或ハ云フ、異人来集、一夜ノ中ニ此堂ヲ經營ス。
天、将ニ明ナントスル時、
天井板一枚ヲ張ノコセシトテ大笑シテ去ル。
故ニ笑堂トイフト。
佛宇畧記ニハ、大同元年、一ノ開創、手刻トアリ。
三十三番第三番ノ札所ナリ。

これを現代的な表現に改めると
次のようなものになるかと思う。

磐城四観音の第一番は平北目の如意輪観音だ。
第二番が上荒川村の蔵勝寺の寺天津(アマツ)観音で、
この観音堂は、大同元年に徳一大師が開き、
観音像は徳一が自ら彫ったといわれている。
第三番は石森観音。
そして、第四番は北郷下綴村の童(ワラフ)堂観音である。
この童堂観音には、子どもたちが土で仏塔を作ったのが、
そもそもの起こりであるとか、
外国の人たちが、一晩にうちにこの御堂を作り、
朝になって、天井板を一枚、張り忘れていることに気づき、
大笑いをしたので、笑堂といわれるようになったともいわれている。
大同元年、徳一大師が開き、観音像を彫ったともいわれている。
磐城三十三観音の第三番札所にもなっている。
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