天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月17日の項には、
次のような記述がある。
十七日 石森観音縁日、參詣夥シ。
領主ヨリ警固ヲ出ス。
石森山ハ城北壱里許ニアリ。
観音ハ大同元年、一大師ノ自刻ニテ、
磐城四觀音ノ一、三十三番札所ノ一ナリ。
堂領御朱印十石アリ。別當ヲ忠教寺トイフ。
堂額、磐城山ノ三大字ハ、
朝鮮國使廣川ノ書ニテ、
天和二年壬戌、内藤左京亮義概、朝鮮使ノ舘伴ヲ命ゼラレシ時、
嘱書セシモノニテ、
磐城山ノ號ハ、此時ヨリ始ル。
古歌称スル所ノ磐城山、必シモ此山ヲ指スニアラズ。
然モ、磐城郡平坦ノ地ニ突出シ、
諸小山ノ主位ヲ占ムルハ此山ナレバ、
磐城山ノ称モ極メテ適當ト謂フベシ。
これを現代的な表現に改めると
次のようなものになるかと思う。
陰暦1月17日 石森観音の縁日で、
多くの参詣者で賑わう。
磐城藩から警固の武士が配置される。
石森山は磐城平城の北の方角約4キロメートルのところにある。
ここの観音像は、大同元年に徳一大師が自ら彫ったもので、
磐城4観音の一つにもなっており、
磐城33番札所の第1番札所でもある。
御朱印領として、10石を有し、忠教寺が別当寺になっている。
観音堂に掲げられている堂額の「磐城山」という文字は、
朝鮮国使、廣川の手になるもので、
天和2年に磐城藩主、内藤義概が
朝鮮国使の館伴を命じられた時に
お願いをして書いてもらったものだ。
石森山を磐城山と呼ぶようになったのは、
この時、以後のことで、
古い時代の歌に詠まれている「磐城山」というのは、
必ずしもこの山のことを指しているのではない。
このような事情はあるにしても、
石森山は、平地域の山々の中では、
中心的な位置をしめており、
「磐城山」と呼ばれるのに相応しいと思われる。
長らくの間、ご無沙汰をいたしまして
大変、申し訳ありませんでした。
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月17日の項には、
次のような記述がある。
十七日 石森観音縁日、參詣夥シ。
領主ヨリ警固ヲ出ス。
石森山ハ城北壱里許ニアリ。
観音ハ大同元年、一大師ノ自刻ニテ、
磐城四觀音ノ一、三十三番札所ノ一ナリ。
堂領御朱印十石アリ。別當ヲ忠教寺トイフ。
堂額、磐城山ノ三大字ハ、
朝鮮國使廣川ノ書ニテ、
天和二年壬戌、内藤左京亮義概、朝鮮使ノ舘伴ヲ命ゼラレシ時、
嘱書セシモノニテ、
磐城山ノ號ハ、此時ヨリ始ル。
古歌称スル所ノ磐城山、必シモ此山ヲ指スニアラズ。
然モ、磐城郡平坦ノ地ニ突出シ、
諸小山ノ主位ヲ占ムルハ此山ナレバ、
磐城山ノ称モ極メテ適當ト謂フベシ。
これを現代的な表現に改めると
次のようなものになるかと思う。
陰暦1月17日 石森観音の縁日で、
多くの参詣者で賑わう。
磐城藩から警固の武士が配置される。
石森山は磐城平城の北の方角約4キロメートルのところにある。
ここの観音像は、大同元年に徳一大師が自ら彫ったもので、
磐城4観音の一つにもなっており、
磐城33番札所の第1番札所でもある。
御朱印領として、10石を有し、忠教寺が別当寺になっている。
観音堂に掲げられている堂額の「磐城山」という文字は、
朝鮮国使、廣川の手になるもので、
天和2年に磐城藩主、内藤義概が
朝鮮国使の館伴を命じられた時に
お願いをして書いてもらったものだ。
石森山を磐城山と呼ぶようになったのは、
この時、以後のことで、
古い時代の歌に詠まれている「磐城山」というのは、
必ずしもこの山のことを指しているのではない。
このような事情はあるにしても、
石森山は、平地域の山々の中では、
中心的な位置をしめており、
「磐城山」と呼ばれるのに相応しいと思われる。
長らくの間、ご無沙汰をいたしまして
大変、申し訳ありませんでした。