Dr. Mori Without Borders / Mori-san Sans Frontieres

森 一仁が医学・国際政治経済金融・人文教養教育など関心問題を国際的・学際的に考える。

作家としての政治家 ~表現形態としての政事と文藝~

2007-02-16 04:42:09 | 総合芸術論:音楽・演劇・笑い
医系理系の専門書の膨大な術語に飽きた最近の私は「日本文学史」を時折開く事で、精神の安定と足りない教養を補う事にしている。何の義務も無い、時間や空間を越えて遊ぶ世界。ここで気になる記述を発見した。「文藝を文藝そのものとして認めず、政治に従属するひとつの要素としてのみ存在させようとする意識」日本では「文藝」は飽くまでも「政治」の範疇の中で育まれてきたと言うのだ。

日本の政治と言えば本来は「政事」と表現すべきであり「まつりごと」と言われるが如く「祭事」と一致している。祭政一致が日本の政治の原始形態だと理解している。ここから朝廷と幕府とがわかれて、祭事と権威を朝廷が担当し、政事と権力を幕府が担当する二重構造となったプロセスは、西洋のローマ帝国よりも早かった筈だ。

文藝が政治的なものとして存在するのならば、時代ごとの幕府の文藝への圧力・影響力は強かったのだろうか?和歌においては宮廷のオクの方々も平民も同等に扱われている。これはどうなのか?後者においてははっきりしている。庶民も和歌と言うメディアを通して宮廷へとアクセスしている。確かにこれは政治権力ではない。超政治的権威であるから、政治への文藝との関わりを考える上では除外すべきかも知れない。また、和歌を「祝詞」などと同等に扱って「言霊思想」で考えれば、それは「祝文」であり、また「呪術」であるとさえ言えるかも知れない。そうなるとこれはもはや文藝ではない事になってしまう。

政治的権力と文藝の関係を表す例として、この文学史では「古事記」やら「日本書紀」やら祭政一致であった頃の権力を問題として論じているが、ここでの文藝とは「史書」であろう。「歴史」とはHISTORYでありHIS・MAJESTYのSTORYと解読すれば、史書が政治的と成りうるのはごく自明であろう。

「文藝が文藝として認められず政治に従属するひとつの要素としてのみ存在させようとする意識」であると考えると、現代の文藝においても「言葉狩り」が存在するのも納得がゆく。言論の自由というお題目に反しているが、文藝自体が国家政治の範疇の中で育ってきたのであれば、表現行為も当然政治的と成らざるを得ない。表現行為が常に政治社会的共同体=国家(くに)の規範の中での行為となるからである。少なくとも自由な個人が世界に向けて発信するという精神態度ではない。

ここで現代を見れば、石原慎太郎都知事、田中康夫長野県知事、故・青島幸雄元都知事、などは全て作家である。文藝の人間が後に政治を志すと言うのは、日本における表現行為が本来政治性を帯びており、政治性の枠組みそのものを破壊、或いは超越しようとする企てが参議院戦や知事選への出馬なのかも知れない。そういえば宮崎県知事の東国原知事(そのまんま東)氏も、以前小説を書いていたと思う。文藝が政治の傘下ならば、日本における「表現の自由」とは即ち表現の機会を得たもののみに許される事になる。

表現の自由・言論の自由やら民主主義と言う概念まで、本邦に根を下ろすのは実は21世紀になった現代ではなく、まだまだ先の事かも知れない。

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