学校の内側から見た(日教組 )

巷で学校の話が出ると、必ずと言って良いほど「日教組」の批判がでてくる。自分のことも含め、学校内部から見た教員組合について率直に書いてみる。私自身は組織嫌いのところがあり、学生時代、安保闘争や自治会活動も全くと言って良いほど関わらなかった。誘われても逃げ回っていた。恋人とキリスト教会へ通い洗礼も誘われたが自由を奪われるようで組織に入るのが怖く、しかし日曜学校の先生をやたっりするうち3年後ぐらいにやっと受洗した。しかし同時期、禅寺にも通い禅の研究をし卒業論文をはじめその後のライフワークになった。《今も一つだけテーマを求められたらそれになる)埼玉で小学校の教員になった。その頃は革新の運動が盛んで革新自治体も次々増えていった時代だ。教員40人近くいた学校では校長教頭を除いて、殆どの先生は組合に入っていた。私は埼玉で2つの学校を経験し組合加入も勧められたがその気になれず全て断った。私の目には、組合の先生達は研究熱心で誠実な方も多くいたが、出世の踏み台にしたりする人や、社会党と共産党の勢力争いも気になった。私自身の教育の理想からちょっと離れた現場に失望し、結婚し子どももいたが、中心都市の東京を受けなおした。東京に来て教育委員会から学校の希望を聞かれ「研究熱心な学校」と答え、足立区のある学校に配属された。驚いたのは組合員の比率はそんなに高くないが組合は強いと感じた。会議の白熱振りは、埼玉どころではなかった。出世の土台にしている組合員は見当たらなかった。組合の先生とも議論をよくやり、組合に何度も誘われたがやっぱり警戒して入らなかった。何年か仕事をしていると、よく勉強し、子ども達に慕われ親が信頼しているのも殆ど組合いの先生である事実や、表向きはと別に管理職が信頼してるのも、熱心な組合の先生だと分った。自分なりに教育への理想があったので、時間はかかったがそれを見て組合に入った。組合の内部から組合や学校や行政などを見るようになった。外から見るよりはるかに組合の先生方の多くは犠牲的に仕事に打ち込んでいた。組合の会議と言っても殆ど、子どもや教育の話だった。休日でも自費で民間の研究会に出かけるのも組合の先生だったし、勿論教育関係の本をよく読んでるのもその人たちだった。しかし現在も私は日本の教育で日教組の先生達の果たした役割の大きさは大いに認め期待もしているがるが、現状で良いとはぜんぜん思っていないし不満を持っているのは事実。いろいろあるが、徹底した文化論・教育論にまだまだなっていないと不満を感じるからだ。(例えば地球の温暖化をはじめ地球の将来をどう考えているか。不登校や発達障害の課題も実践的な把握や提言に私は非常に不満)しかし私が求めているのは日本の歴史的な到達点への不満であり表面的に表れる政治や行政、労働組合・一般市民・保守革新・右左に関係ないことに退職してやっと気がついた(当然自分自身もふくめてのこと)。行政やメディアや一般市民による批判や組合つぶしにより、今は組合に参加する人は殆どいなく活動も沈滞している。(当然同時にほとんどの教育民間団体も半壊してしまった)ある意味では日本の政治は成功したのかもしれない。しかし、しっかり見ておいてほしいのは、戦前の反省のもと憲法で保障し、戦後、文部省も勧めた教員組合をつぶすのは一つの考えだろうが、同時に現在の日本の学校教育、子ども達の教育や心そのものも壊し、今日に至っているという事実である。時期的に一致しているだけでは説明されない。いまは先生方はどの民間教育団体にも顔を出さないどころか、教育雑誌を読む姿も殆ど見られない。(最近は売れないから本屋でも教育雑誌は置かなくなった) 学校内では先生方の人間関係もばらばらになり、世間をあっと言わせるような学校に関わる子どもの事件も話題にすらならない(話を持ち出すと場違いの感じになる)。職員会議も単なる校長からの指示連絡機関になり会議の体を成していない。最も問題なのは子ども達の状況が学校長はじめ誰も全体として把握できなくなってきている。不登校の子がいても,籍だけ学校にあり、学校長も担任も含め顔すら知らないような実情すらでてきている。(組合の先生がものが言える時代はこんなことは考えられないことだった。不登校・引きこもりが増加したり学力低下が問題になったのも組合の退潮と時期を全く同じくしている。外部の人でも先生同士、学級の子ども達がバラバラになってきているのは感じてきているのではないか)。校長は学校を代表する立場にあるが、教育委員会が学校の現状を尋ねても、代表してものが言えるほど、学校や子どものことを把握している校長がいるとは考えられない。皆無だと確信を持っていえる。それは以前情報を交換し議論していた時代から出合った管理職で全体を把握していた人は一人もいなかった。多分私もできないだろう。それ自体無理なことではないか。子供たちの実情も含めると、個人に学校の全てを尋ねることの限界を知るべきだ。教育行政はそのことを知ってそれを前提にことを進めるべきなのに、形式的な責任者イコール代弁者として、全てにわたって掌握していることを前提にことを進めるから今日のように子どもがおいてきぼりになり、子どもも教師も親もばらばらになり、学校教育が壊れてしまったは当然の帰結。当局はいまだにそのことに気がついていない。 現在はさらに、壊れた学校に教育改革の美名で競争の市場原理を【また】上から持ち込もうとしている。こと教育に関して言えば絶対的な力を持った行政も中毒患者のように状況把握と自己コントロールができないでいる。(今後益々上意下達の体制は「支援」の言葉で強まり校長をも上から縛るはず)子育てや教育の原理はお上にあるのではなく一人ひとりの子どもが持っている事実が全く分っていない。これは難しい理屈ではない。誰でも自分自身や周囲の生き物全てがそうなってはいないか考えるとすぐ分ること。個体が成長発達の原理を内包している。

静かに農家の仕事を見るがいい。

 

 

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