昨夜8日、21時から放映された日本テレビ゛開局55年記念SPドラマ『あの日、僕らの命はトイレットペーパートより軽かった~カウラ捕虜収容所からの大脱走~』を視聴。
以前(2005年9月)にNHK制作のドキュメンタリー『カウラの大脱走』が放映されたが、このドラマは、『anego』や『ハケンの品格』を手掛けた人気脚本家、中園ミホさんが、自身の大叔父佐藤憲司さん(87歳)に取材し仕上げた作品だった。
戦後63年たった今、脚色されたドラマにしろ「戦争」の記録を若い世代に伝える意味で、一石を投じた作品だったと思う。
2つもの原爆を投下された後、降伏し終戦を迎えるその一年前となる、1944(昭和19)年8月5日に、オーストラリア連邦ニューサウスウェールズ州カウラに設置されていた「カウラ第12戦争捕虜収容所」で収監されていた日本人捕虜の集団脱走事件が起こった。
カウラ市は、シドニー西郊310kmに位置し、現在ではセントラル・ウエスト地帯の農業中心地で、オーストラリアきっての白ワインの特産地として知られている。
このカウラ捕虜収容所は、オーストラリア国内にあった28の抑留施設のうち、1941年に開設された12番目のもので、当初ドイツ、イタリア兵が収容されていたが、1942年ごろからガダルカナル、ニューギニア戦線の激化に伴い、日本兵の数が増加していったと言う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/56/d6fb75c6e1356348bc022effe449c83c.jpg)
実際、この捕虜収容所にいた日本の陸軍の軍人の多くは、ガダルカナル島でジャングルをさまよって瀕死の状態で収容された兵士や、撃沈された艦船や輸送船から海に投げ出されて漂流し、アメリカ軍に救助された兵士及び軍属、民間人たちだったそうだ。
ほぼ円形のカウラ収容所は、東西南北に四等分され、北西部はA地区、北東部はB地区、南東部はC地区、南西部はD地区と時計回りに区分されていた。
A地区には北アフリカ戦線で捕虜となったイタリア兵、B地区には日本人捕虜のうち下士官と兵、C地区にはイタリア人捕虜、そしてD地区には日本人捕虜(将校)と朝鮮人、台湾人捕虜が収容されていたそうだ。
事件当時、A・C地区合わせて約2.000人のイタリア兵、B地区には1104人の日本兵が収監されていた。
戦時下、傷病者の状態改善に関する赤十字条約(ジュネーブ条約)を批准していない日本軍とは違い、オーストラリア軍は負傷者、栄養失調者などを含む捕虜に手厚く看護・介護、日本兵には、文化的スポーツであった野球、相撲、麻雀などのリクリエーション活動も許されていたと言う。
母国に手書きを送ったり、明るく過ごしているイタリア兵捕虜に対し、日本兵は「捕虜」になる事を「不名誉」としていた為か、捕虜になった日本兵の7~8割はが偽名で登録し、家族に手紙を書く事も行わなかったそうだ。
これは、名前が母国で照会される事により、自分の家族などが非国民の扱いを受けたり、村八分などの差別にあう可能性を避ける為だったと言う。
1.000人を越える収監日本兵の間に漂う恥辱払拭の空気を危険視した収容所サイドは、日本兵の分散の為、一部をカウラから更に内陸の「ヘイ収容所」への移送を決定した。
8月4日(金)午後2時に「明日、下士官以外の700人をヘイ収容所に移動させる」旨を捕虜代表に通告。
この決定が悲劇の引き金となった。
後に「カウラ事件」と呼ばれる日本兵(人)捕虜の脱走が起こる。
特筆すべきは、収容所を逃げる為の「脱走」ではなく、名誉の戦死を遂げる為の「脱走」だった事だ。
捕虜間で秘密裏に協議され、この無謀な「脱走」決行は。翌8月5日(土)午前2時と決まる。
不名誉な「捕虜」ではなく、日本軍人として戦死する為に・・・
今の自分には到底理解できないが、この発想の原点は、『戦陣訓』(本訓其の二第八「名を惜しむ」)の一節
≫恥を知る者は強し。
常に郷党家門の面日を思ひ、愈々奮励し其の期待に答ふべし。
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。≪にあるとされている。
この部分だけが一人歩きして、数々の日本軍の玉砕や全滅、民間人の自決を推奨し、降伏を禁止させる際、引用されたのは事実だろう。
本来は、≫軍人として恥ずかしい行いをすれば、捕虜になった時はもちろん、死んでからも罪禍の汚名を着る事になる。
それは本人だけでなく、同郷の者や故郷の家族から面目の立たない事であるから、軍人として恥ずべき行いはやってはいけない。≪と言う意味合いで、決して降伏する事を禁止したり、捕虜になる事そのものを禁じたものではないと思う。
が、日本人の気質か?軍国至上主義の世情の中で熟成したこの一文は、軍人として恥ずべき行為である職責を全く果たさねままの逃亡や投降と同列に、不可抗力で仕方なく捕虜になった場合をも同胞し、「捕虜」になる事そのものを恥ずべき行為と位置づけてしまったのだろう。
また、非戦闘員の国民までも、洗脳してしまった。
野球のバットや食事の際のナイフ・フォークを手に、死への脱走は決行された。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/fa/327d1279000df92a46a69dc61561228c.jpg)
↑鉄条網に残された日本兵の掛けた毛布
射殺された者 183名
自殺した者 31名
焼死体 12名
その他 5名
計.231名の日本兵と、オーストラリア兵4名が犠牲者となった。
負傷者 107名中、その後3名が死亡。
オーストラリア軍は、日本兵の死者を丁重に葬り、生存者の罪は一切問わなかったと言う。
そして、世界各地に抑留された日本兵の中で最も早く、翌年8月、終戦を迎えると直ち収監されていた日本兵捕虜を帰還させている。
帰還した870名のうち、「捕虜」であった事を名乗り出たものは、半数にも満たない300余名。
更に、その後「カワラ会」を結成に名を連ねた人は、一割に満たない80名にすぎなかったそうだ。
この捕虜脱走事件は、オーストラリアと日本の両国政府によって長く隠蔽され、事件が公開されたのは、事件から40年後の1984年の事となる。
史実である。
「捕虜」である事を恥、残された家族を想って決断した「名誉の戦死」
平和を享受して生きる自分は、愚かだと言う事も、さりとて納得する事も出来ずにいる。
・・・結論は出なくても、歴史を見つめる事が大切なのでと自分を慰めて・・・
以前(2005年9月)にNHK制作のドキュメンタリー『カウラの大脱走』が放映されたが、このドラマは、『anego』や『ハケンの品格』を手掛けた人気脚本家、中園ミホさんが、自身の大叔父佐藤憲司さん(87歳)に取材し仕上げた作品だった。
戦後63年たった今、脚色されたドラマにしろ「戦争」の記録を若い世代に伝える意味で、一石を投じた作品だったと思う。
2つもの原爆を投下された後、降伏し終戦を迎えるその一年前となる、1944(昭和19)年8月5日に、オーストラリア連邦ニューサウスウェールズ州カウラに設置されていた「カウラ第12戦争捕虜収容所」で収監されていた日本人捕虜の集団脱走事件が起こった。
カウラ市は、シドニー西郊310kmに位置し、現在ではセントラル・ウエスト地帯の農業中心地で、オーストラリアきっての白ワインの特産地として知られている。
このカウラ捕虜収容所は、オーストラリア国内にあった28の抑留施設のうち、1941年に開設された12番目のもので、当初ドイツ、イタリア兵が収容されていたが、1942年ごろからガダルカナル、ニューギニア戦線の激化に伴い、日本兵の数が増加していったと言う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/56/d6fb75c6e1356348bc022effe449c83c.jpg)
実際、この捕虜収容所にいた日本の陸軍の軍人の多くは、ガダルカナル島でジャングルをさまよって瀕死の状態で収容された兵士や、撃沈された艦船や輸送船から海に投げ出されて漂流し、アメリカ軍に救助された兵士及び軍属、民間人たちだったそうだ。
ほぼ円形のカウラ収容所は、東西南北に四等分され、北西部はA地区、北東部はB地区、南東部はC地区、南西部はD地区と時計回りに区分されていた。
A地区には北アフリカ戦線で捕虜となったイタリア兵、B地区には日本人捕虜のうち下士官と兵、C地区にはイタリア人捕虜、そしてD地区には日本人捕虜(将校)と朝鮮人、台湾人捕虜が収容されていたそうだ。
事件当時、A・C地区合わせて約2.000人のイタリア兵、B地区には1104人の日本兵が収監されていた。
戦時下、傷病者の状態改善に関する赤十字条約(ジュネーブ条約)を批准していない日本軍とは違い、オーストラリア軍は負傷者、栄養失調者などを含む捕虜に手厚く看護・介護、日本兵には、文化的スポーツであった野球、相撲、麻雀などのリクリエーション活動も許されていたと言う。
母国に手書きを送ったり、明るく過ごしているイタリア兵捕虜に対し、日本兵は「捕虜」になる事を「不名誉」としていた為か、捕虜になった日本兵の7~8割はが偽名で登録し、家族に手紙を書く事も行わなかったそうだ。
これは、名前が母国で照会される事により、自分の家族などが非国民の扱いを受けたり、村八分などの差別にあう可能性を避ける為だったと言う。
1.000人を越える収監日本兵の間に漂う恥辱払拭の空気を危険視した収容所サイドは、日本兵の分散の為、一部をカウラから更に内陸の「ヘイ収容所」への移送を決定した。
8月4日(金)午後2時に「明日、下士官以外の700人をヘイ収容所に移動させる」旨を捕虜代表に通告。
この決定が悲劇の引き金となった。
後に「カウラ事件」と呼ばれる日本兵(人)捕虜の脱走が起こる。
特筆すべきは、収容所を逃げる為の「脱走」ではなく、名誉の戦死を遂げる為の「脱走」だった事だ。
捕虜間で秘密裏に協議され、この無謀な「脱走」決行は。翌8月5日(土)午前2時と決まる。
不名誉な「捕虜」ではなく、日本軍人として戦死する為に・・・
今の自分には到底理解できないが、この発想の原点は、『戦陣訓』(本訓其の二第八「名を惜しむ」)の一節
≫恥を知る者は強し。
常に郷党家門の面日を思ひ、愈々奮励し其の期待に答ふべし。
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。≪にあるとされている。
この部分だけが一人歩きして、数々の日本軍の玉砕や全滅、民間人の自決を推奨し、降伏を禁止させる際、引用されたのは事実だろう。
本来は、≫軍人として恥ずかしい行いをすれば、捕虜になった時はもちろん、死んでからも罪禍の汚名を着る事になる。
それは本人だけでなく、同郷の者や故郷の家族から面目の立たない事であるから、軍人として恥ずべき行いはやってはいけない。≪と言う意味合いで、決して降伏する事を禁止したり、捕虜になる事そのものを禁じたものではないと思う。
が、日本人の気質か?軍国至上主義の世情の中で熟成したこの一文は、軍人として恥ずべき行為である職責を全く果たさねままの逃亡や投降と同列に、不可抗力で仕方なく捕虜になった場合をも同胞し、「捕虜」になる事そのものを恥ずべき行為と位置づけてしまったのだろう。
また、非戦闘員の国民までも、洗脳してしまった。
野球のバットや食事の際のナイフ・フォークを手に、死への脱走は決行された。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/fa/327d1279000df92a46a69dc61561228c.jpg)
↑鉄条網に残された日本兵の掛けた毛布
射殺された者 183名
自殺した者 31名
焼死体 12名
その他 5名
計.231名の日本兵と、オーストラリア兵4名が犠牲者となった。
負傷者 107名中、その後3名が死亡。
オーストラリア軍は、日本兵の死者を丁重に葬り、生存者の罪は一切問わなかったと言う。
そして、世界各地に抑留された日本兵の中で最も早く、翌年8月、終戦を迎えると直ち収監されていた日本兵捕虜を帰還させている。
帰還した870名のうち、「捕虜」であった事を名乗り出たものは、半数にも満たない300余名。
更に、その後「カワラ会」を結成に名を連ねた人は、一割に満たない80名にすぎなかったそうだ。
この捕虜脱走事件は、オーストラリアと日本の両国政府によって長く隠蔽され、事件が公開されたのは、事件から40年後の1984年の事となる。
史実である。
「捕虜」である事を恥、残された家族を想って決断した「名誉の戦死」
平和を享受して生きる自分は、愚かだと言う事も、さりとて納得する事も出来ずにいる。
・・・結論は出なくても、歴史を見つめる事が大切なのでと自分を慰めて・・・
第二次大戦時の「皇民教育」のなせる業、なんでしょうかね?<捕虜は恥
昨年からの「沖縄戦集団自決」の件もそうなんですが、
「あの戦争から、何にも学んでないんじゃないの?」と思えるような発言をする人をみると、腹がたつんですよねえ・・・。
事実を受け止める、ということは、難しいことなんでしょうか?
「サミットって何ー??」なんて、のんきに騒いでいる高校生(事実)をこれ以上生産しないためにも、何か考えないといけないですよね。
私は正直、ドラマ副題の「トイレットペーパー~」は、気に入らなかったのですが、特異なエピソードを際立たせたい意図があったのでしょう・・・
常識も知らないおバカ・キャラが堂々とメディアでその無知を売りにしているご時勢なので、一般人までもがそんなレベルを良しとしている感があります。
物事を短絡的に気に入るかいらないか、好きか嫌いか程度の基準で判断している風潮は、戦後の大人たちが道筋をつけちゃったんだよね~
どげんかせんといかん・・・