「ぐるくん」のひとりごと

大好きな海のこと、沖縄のこと。 また今関心を持っている韓国語の学習、韓ドラ・レビューなど気ままな雑記

ひとりごと<50> 原爆の日によせて その2

2005年08月07日 | つれづれ
 太平洋戦争開戦の始まりとなった1941年12月8日、日本軍のハワイ「真珠湾攻撃」の奇襲は作戦として成功した。 

 訓練をつんだ錬度の高いパイロット達の操る飛行機による爆撃は、それまでの主流だった戦艦主力の砲撃に優る事を実証した。

 以後、攻撃を受けた側の米軍は戦闘における主役を飛行機として行く。

 一方、日本では同月16日に4年前の昭和12年に計画され広島呉の海軍工廠で建造された大型戦艦「大和」が竣工し海軍に引き渡され第1戦隊に編入された。

 翌年8月5日には僚艦「武蔵」も長崎の三菱造船所で竣工する。

 最後の超弩級大型戦艦として悲劇的な最後を遂げた両艦が共に原爆の投下された広島と長崎で生まれた事はただの偶然なのだろうか?


 昭和14年に計画された同型艦「信濃」は横須賀海軍工廠で建造途中、空母に変更され1944年11月に竣工。 「信濃」と同じく呉海軍工廠にて建造途中だった「第111号艦」は1942年3月に建造中止となり解体される。
 昭和16年計画の「第797号艦」は建造中止。

 日本の工業技術の粋を集めた世界最大の戦艦で、大艦巨砲主義を象徴する戦艦だったと言えるが、戦局の悪化の中で同型艦建造計画が変更、頓挫していった。

 戦局を塗り変えたと言われる昭和17年6月のミッドウェー海戦で連合艦隊は「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4空母と艦載機285機を失い大敗する。

 昭和19年6月のマリアナ沖での海戦で、日本は空母3隻400余機の艦載機を失う。

 昭和19年10月のレイテ沖海戦では「大和」自身も傷つき敗走。
 僚艦「武蔵」は他の艦船を助ける為、自らが敵艦隊の標的となり沈んだ。

 沖縄に米軍が上陸を開始した昭和20年4月には、「大和」に特攻の命が下される。 日本海軍の花形戦艦に下された特攻とは、沖縄の浅瀬に自ら乗り上げ座礁させ、艦その物を動かぬ要塞として、米軍の上陸を阻止すると言うものだった。

 戦艦が海上で戦う事を否定された、この特攻作戦は飛行機の特攻の悲哀とまた別の悲しさを感じる。

 昭和20年4月6日、徳山沖に待機中の「大和」が沖縄に向けて出撃する。

 伴するは、軽巡洋艦「矢矧」駆逐艦「雪風」「磯風」「浜風」「朝霧」「霞」「初霧」「冬月」「涼月」の9隻のみ、護衛に当たる戦闘機は1機もなかった。

 翌7日の昼には米軍に察知され、新鋭空母12隻、艦載機約800機で迎撃を受ける。

 「大和」の武器である対空砲火用の測距儀は人の目を頼りにしていた為、敵艦載機の攻撃の中、ほとんど反撃ができぬままであった。

 不沈艦と言われた「大和」は注排水システムで艦のバランスを保つのだが、米軍の巧妙な作戦は「大和」の左舷ばかりを狙って爆撃・雷撃を繰り返す為、このシステムも限界を向かえ「大和」は大きく傾く。

 数分後、「大和」横転、大爆発を起こし沈没。 乗組員3000余名が命を落としたと言う。

 東シナ海、長崎県男女群島南176km地点の海底に今なお「大和」は眠っている。

 
 連合艦隊の旗艦を務めた事もある「大和」の海上特攻と言う最終手段的な作戦(と言えるかどうか?)に失敗してもなお戦いを続ける道しかなかったのか、終戦を迎えるまでに余りにも多くの人が犠牲になっている事を思うと考えてしまう。

 

  

  
 

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