<前日の夕方の慰霊碑です>
先日、いつも行く散髪屋さんで、そこのおやじさんが、現在の中学2年の時に、湯来町で昭和20年8月6日の午前8時15分の広島に投下された原子爆弾を目撃したという話を聞かせてもらった。
朝、教室で先生の戦争の話を聞いていたら、教室の天井の隅のくもの巣が見えるほどの光が走った。
○○少年は、その光でただごとではないことを感じて、窓際のガラス窓に張り付いてその光の来た東の方向を見ていた。
すると、学校の正門の2本の石柱の真ん中に、巨大な煙の煙突が見る見るうちに湧き上ってきた。
あまりの光景に少年は、大声でさけんでしまった。先生が真っ赤な顔をして怒りにきた。光が走ってから15,6秒経った時に、今度は、窓ガラスが割れんばかりの音がした。その音の異様さに、今度は先生が真っ青になって、少年の右肩にすがって、巨大に立ち昇ってゆく原子爆弾の雲を見ていた。
ただごとではない状況に、全校生徒に校庭に集合するよう、号令がかかって、校庭に集合した。少年は校庭で、ずっと原子爆弾の異様な煙の煙突を見ていた。巨大な煙の煙突は、広島の町から少年のいる湯来町までの地形をなぞるようにうねりながら何千mの上空まで立ち昇っていった。
その巨大な煙のうねりは、少年の真上まで届き、上空で直径500m以上にもおよぶ煙のうねりが外側から内側へもぐり込み、もぐったうねりがさらに内側にもぐるように、尽きることなく続いた。
原爆を投下したであろうB29が何度も何度も左旋回を繰り返しながら、上空に上昇していった。
少年は、写真を写しているなと思った。何度も何度も旋回を繰り返して東のかなたで旋回すると、西の豊後水道方向に飛び去った。
広島の街を焼いた煙が空を覆って流れてきて、その煙を通して見える真っ赤な太陽がものすごい速さで動くように見えた。
ほどなくして、その日は下校することになり、少年は6kmの道を家に帰った。家にたどり着いてから、外を眺めていると、空から紙切れのようなものが舞い降りてきて、田んぼに落ちた。
棒切れでその紙切れを手繰って見ると、それは30cmくらいの、ふすまの焼け落ちた紙だった。その後に、にわかに空もようが怪しくなってきて、黒い雨が降ってきた。
少年は、当時では貴重な3球ラジオ?を持っていた。大本営発表は逃さず聞いていました。原爆が投下される年の5月のある日に、家族みんなでかしわ餅を作っていると、ラジオから、四国沖から、B29が200機、少年のいる地域の上空を通過する情報を聞いて、家族に『20分後に自分の家の上空をB29が200機飛んでくるから、絶対見よう』と家族に告げたそうです。家族は半信半疑だったようですが・・・
15分くらい経って、少年は外に出ましたが飛行機は飛んできません。5分早いなと思って、もう少し待ったそうです。しばらくすると、三角形に編隊を組んだ9機のB29の編隊が、横に50機、少年の田舎の空いっぱいに、耳をつんざくような爆音を響かせながら飛んできた。
その50機編隊が4群、計200機のB29の爆撃行です。
少年のラジオからの情報による予想は3度当たった。
原子爆弾に焼かれた人が、どんなふうに死んでいったかという話も、人からの伝え聞きで、2つ聞かせて、もらったが、あまりにむごいのでこのあたりにしておきます。
合掌