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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

清見糺の一首鑑賞  141

2021-08-05 19:53:11 | 短歌の鑑賞
  ブログ版清見糺短歌鑑賞21 99年   鎌倉なぎさの会 鹿取 未放


141 夕さればなくかなかなにつくつくとわが晩年はくらみゆくなり
                 「かりん」99年11月号

 「夕されば」は夕方になると、の意。かなかな、つくつくという蝉の名前でもあり鳴き声でもある語をつらね、後者は「つくづくと」の掛詞としても用いている。季節的にカナカナよりツクツクホウシの方が遅く鳴き始めるようである。また、晩夏の薄明時に鳴くカナカナには日暮らしという別名もあり、ものがなしい鳴き声で知られている。ともあれ夕暮れを告げるように盛んに鳴く蝉の声に人生の季節の秋や終末を思っているのである。
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清見糺の一首鑑賞  140

2021-08-04 19:37:28 | 短歌の鑑賞
  ブログ版清見糺短歌鑑賞21 99年   鎌倉なぎさの会 鹿取 未放


140 うねり来てテトラポッドを噛み砕く波のちからをわれはよろこぶ
「かりん」99年10月号

 八丈島に歌友である左海正美を尋ねた経験を元にした作。小さな入り江のコンクリの上にまさに泳がんとして水着で腰掛けたとたん、いきなり波が来て頭上ゆうに一メートルを超した。鎖を握っていなかったら仲間達みんな波に浚われていただろう。あの時はみんな肝を冷やしたが、歌は「よろこぶ」と強がっている。50メートルほどしかない狭い入り江の入り口にはテトラポッドが積み上げてあった。そのままの歌だが、結句のよろこぶに面白さが出ていよう。波の「ちから」という表現には馬場あき子の影響も見てとれる。精神が解放され、南の海のダイナミックな力に圧倒されて浮き立っている気分がよく出ている。
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清見糺の一首鑑賞  139

2021-08-03 19:05:13 | 短歌の鑑賞
  ブログ版清見糺短歌鑑賞21 99年   鎌倉なぎさの会 鹿取 未放


139 アメリカのアメリカによるアメリカのための世界へなびけ日の丸
     「かりん」99年9月号

 リンカーンの大統領就任演説「民衆の民衆による民衆のための政治」を下敷きにし、逆転して使っている。
 米川千嘉子「前月号鑑賞」に「まちがっても、アメリカ支配の世界へ反旗を翻すようにしっかりせよ日本。ではなく、万事アメリカのいいなりになるしかない、さびしい『日の丸』日本よ。という気持だろう。『なびけ日の丸』という皮肉の言葉の空虚さは覆いようもない。」とある。
 毎年熱海で行われている実朝を偲ぶ会に、2000年10月、結句を「八紘一宇おそろし」と改作して提出、四人の選者から楯を四個もらった作品。しかし、その後フロッピーは改作を載せず、「世界へなびけ日の丸」を残している。
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清見糺の一首鑑賞  138

2021-08-02 17:30:37 | 短歌の鑑賞
  ブログ版清見糺短歌鑑賞21 99年   鎌倉なぎさの会 鹿取 未放


138 無力感おもたくあれどさはあれどかの日のようにデモに加わる
      「かりん」99年9月号

       同じ号の歌
青葉濃きひかりの午後を風絶えてゴドーもどこかへ行ってしまった
なみだより汗しおからく造られてかなしきろかもひとのからだは
無力感おもたくあれどさはあれどかの日のようにデモに加わる
わがデモは頭をたれてもくもくとただもくもくと歩くのみなる
アメリカの世界戦略フンサイとこころのなかでは叫んでいるのだ
「戦前」が歩きはじめている五月渋谷はいつものようなにぎわい
アメリカのアメリカによるアメリカのための世界へなびけ日の丸
つれづれなるままに日ぐらしテレビの灯をともしわずらう君が代の末
夕さればにわかに秋のこころ湧き飲むよりほかにすることもなし

 かつて政治的事件で拘留された話は、別項で書いたので省略するが、デモには六十年安保の問題も含め、相当に複雑な思いを抱いていたようだ。だから無力感が重たい。それでも意を決してデモに加わる。声を出すこともなく、ただ一隊の中にいて、頭を垂れて歩くだけだ。心の中では「アメリカの世界戦略フンサイ」と叫んでいるのだけれど……。同号の歌を勘案するとそう読めるが、一首で通じるか。「かの日」と言われても読者はとまどうだろう。
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清見糺の一首鑑賞 137

2021-08-01 20:37:03 | 短歌の鑑賞
  ブログ版清見糺短歌鑑賞21 99年   鎌倉なぎさの会 鹿取未放


137 東シナ海おだやかに凪ぎうりずんの嘉手納に核がごろごろといる
         「かりん」99年7月号

 結句の「いる」が眼目だろう。うりずんの美しい沖縄と禍々しい核の取り合わせ。この二項対立の単調さを救っているのは、核を無気味な生き物のように「いる」と表現した手際による。しかし、核は甲羅のような硬いモノで覆われてわれわれの目からは隠されている。嘉手納、核、ごろごろと硬いカ行音を並べて大いなる力で拒否される違和感を表しているようだ。
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