かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 33

2023-05-01 09:41:10 | 短歌の鑑賞
 2023年版渡辺松男研究5(13年5月実施)
    『寒気氾濫』(1997年)橋として
     参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター  鈴木良明 まとめ  鹿取 未放


33 橋として身をなげだしているものへ秋分の日の雲の影過ぐ

      (レポート)
 「橋として身をなげだしているもの」とは、作者の身体を投影して実感したものであり、そして、そのあり方は、重力にあらがい、反作用として拮抗している生の力である。空を行く雲も生の力として生成し変化して流れ続け、その結果としての影が過ぎてゆくのである。(鈴木)


        (当日意見)  
★「かりん」の特集号で『寒気氾濫』の自選5首にこの歌は入っていました。私
 自身はこの歌を読んだ時これはニーチェだと思いました。「ツァラツストラ」で
 人間は超人になる途上にあって橋のような存在だというようなことを言っている
 《後に記述》。そういう精神的な高みに登る通過点のような存在。でも、この歌
 は何重にも読める。弧の空間を支える緊張感とか精神の危うい状態とか。また、
 「橋として身をなげだしているもの」を性愛の場面の女体と捉えると下の句もと 
てもリアルに読めて、そういう解釈だってありと思う、解釈は読者の自由だから。
    (鹿取)
★世界との架け橋、関わりということで考えてもいいのかなあ。何かと何かを結
  びつける。(鈴木)
★渡辺さんはよく橋を歌っていますよね。地獄への力と天国への力とが釣り合う
  橋を渡るとか。(鹿取)

 ※地獄へのちから天国へのちから釣りあう橋を牛とあゆめり『寒気氾濫』


 【『こうツァラツストラは語った』】第一部 ツァラツストラの序言 4より
 「人間は、動物と超人との間に張りわたされた綱である。深淵の上にわたされた綱である。渡っていくのも危険、途中にあるのも危険、身ぶるいして立ちどまるのも危険。
 人間が偉大なのは、人間が橋であって、目的でない点にある。人間が愛されうるのは、人間が一つの過渡であり、没落である点にある。(後略)
  高橋健二・秋山英夫訳、引用文中の傍点は、翻訳者

 【自歌自注】「かりん」二〇一〇年十一月号
 「橋として身をなげだしているもの」には『ツァラツストラ』が頭にありました。「秋分の日」という言葉で時間的均衡を考えました。「秋分の日」がふさわしいと思いました。佐太郎の歌「秋分の日の電車にて床(ゆか)にさす光もともに運ばれて行く」も頭にありました。「雲の影過ぐ」で具体性・具象性を持たせました。

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