かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 205

2022-12-10 09:40:14 | 短歌の鑑賞
  2022年度版 渡辺松男研究2の27(2019年9月実施)
     Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆、渡部慧子    司会と記録:鹿取未放


205 われひとり ひとりであれば蟬を食べいいようのなき午後のしずけさ

          (当日意見)
★名歌だと思います。存在の根源的な寂しさを詠ったのだと思います。蟬をほんとうに
 食べたかどうかは追求しなくていいと思います。われはひとりなんですよね。この世
 に一人で存在している、絶対的な孤独です。(A・K)
★もう少し先に枯れ葉や日溜まりを食べる歌があって、確か川野里子さんがどこかでそ
 の歌について書いていらしたのですが、見つけられなくて。たぶんA・Kさんの今の
 意見のようなことだったと思うのですが。(鹿取)
★枯れ葉とか日溜まりは叙情的ですね。でも、ここは蟬でもっと即物的ですから怖い。
 でも人間は意識していなくても他の命を食べて生きている訳ですから。もしかしたら
 魚や鶏だったかもしれないけど、この人は蟬と言った。蟬は弱いですから人間に抵抗
 できない。それにはっと気が付いたとき、自分が世界に存在すること自体の絶対的な
 寂寥のようなものを感じた。善悪を超えたところにある孤独と寂寥だと思います。普
 通われわれは「蟬食べて」とは言えなくて茄子食べてとかなっちゃうけど、蟬がでた
 からこそ深い歌になった。(A・K)
★イナゴなどでなく蟬だからいいですね。イナゴ食べても静かにはならないけど、蟬だ
 から食べられて鳴き声がなくなって静かになった。(岡東)
★しずかさをそう解釈すると歌が浅くなります。私はいかに読者を自分の歌に引き込む
 かが大切と教えられてきました。迎合することとは違いますが。蟬を食べるって読者
 はびっくりしますよね。(A・K)


      (レポート①)
 初句「われひとり」の次の一字空けは何なのだろう。この一字空けから異界へゆくように、妄想をここから広げる。そのような意図だろうか。ちょうど今一人で居て蟬を食べる。食べると蟬声は絶える。結果いいようのない午後のしずけさとなる。ここにものの善し悪しをこえた何か根源性につながるような静けさを感じる。世界にたったひとりでいるような、吞まれてしまうような圧倒的な夏の午後の静けさを詠っていよう。
  (慧子)

        (レポート②)
 今回ネットで検索してみて初めて知ったのだか、蟬は食べられるのだそう。唐揚げにしたり、幼虫は味付けをして燻製にしたりするらしい。作者は一人の時にこっそり蟬を食べてみた(心で食べたのかもしれないが)、そうしたらいいようのないしづけさがあたりを包んだという。「午後のしずけさ」には蟬を食べてしまったという単純な悲しみなどではない、もっと深くて厳かな寂しさがあるように思う。(真帆)


     (レポート③)(紙上参加意見)
  本当に「蝉を食べ」たかどうかはわからない。たぶん、食べてはいないだろう。けれど、確かにシャリシャリと乾いた音がしそうで、その音は午後の静けさを際立たせるだろうし、蝉という殻ばかりで実態のないような軽いものを食べればむなしく孤独感は強まるだろうから、「蝉を食べ」がぴったりなのだ。(菅原)


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