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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 74

2025-07-26 09:41:38 | 短歌の鑑賞

2025年度版 渡辺松男研究2の10(2018年4月実施)
    『泡宇宙の蛙』(1999年) 【邑】P50~
    参加者:泉真帆、K・O、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:泉 真帆       司会と記録:鹿取未放   

 

74 いただきゆ君が手をふる青あらし古墳そっくり抱きたくてわれ


          (レポート)
 俳句のようにぴしりときまった上句だ。小山のようにこんもりと林に覆われた古墳の頂きから君が手をふっている。すると青嵐もろとも君の心が吹いてきた。青葉のそよぐその古墳もろとも「そっくり抱きたくて」という熱く壮大な相聞歌だと感じ、ほーっと溜息がでてしまった。(真帆)

 

            (当日発言)
★青あらしは作者と相手との両方の心を込めているように思いました。古墳そっくりと言ったので歌が生々しくならないと思いました。(慧子)
★私はあまり相聞とは思いませんでした。古墳にシンパシィを感じていて、そこに壮快な青あらしが吹いている。そして古墳の頂に立って(きっと小さな丘なのでしょう)、恋人だか妻だかが手を振っている。昔話の絵本に出てくるような漫画チックな情景が浮かんでくる。男と女の情愛がテーマな のではなくて、古墳・青あらし・心の通じる相手、そういうものひっくるめた眼前の風景への讃歌と読みました。(鹿取)
★過ぎてしまった時代、あるいは土の中に埋まっていて見えなかったもの、どちらかというと「死」が近いもの、松男さんの歌って、すぐそこに死があるんだけど生命力というか再生力というか、生命賛歌というのがこのあたりにも出ているなあと思って。古墳って死者のものなんだけど、なまなましくなくて、こんもりしていて、人間の肉体のようで。その天辺から君が手を振っているって、普通は見えないと思うけど、でも見えるような存在感があって凄いなあと。俳句のように作られているのに、この韻律感は何でしょう。土着性もあって生命感もあって、それで死が近い。松男さんの死生観がよく現れている一首だと思いました。(K・O)
★松男さんの歌ってどんなに深刻でもユーモアがあったりしますね。この歌も単純化された構図だけ ど、死生観とか深いところに及んでいて、でも表面はダイナミックで楽しい歌。土着性というK・O さんの意見、とても勉強になりました。(鹿取)

 

     (後日意見)2019年5月追加
 ジパング倶楽部2020年5月号に、群馬の古墳を特集していて、八幡塚古墳と井出二子山古墳の写真が載っている。ゆるやかな富士山型でてっぺんまで階段が付いている。木は茂っておらず、頂上に立つ人の姿がしっかりと見える。松男さんは群馬の人なので、この歌の古墳はこんな感じだろう。このあたりの古墳の高さは6m~9m程度なので、古墳の下にいて頂上に立つ人の顔の識別も十分できる。
 第一歌集『寒気氾濫』にも古墳の歌が⒉首あったが、『泡宇宙の蛙』ではもう少し先の頁に埼玉県の将軍山古墳をうたった歌がある。
    将軍山古墳というを見ておればめぐりに湧きて埴輪が増ゆる P121

 

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 73

2025-07-25 10:57:58 | 短歌の鑑賞

   2025年度版 渡辺松男研究2の10(2018年4月実施)
     『泡宇宙の蛙』(1999年) 【邑】P50~
     参加者:泉真帆、K・O、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:泉 真帆       司会と記録:鹿取未放          

          
73 土のなかの無数の邑(むら)が笑うなり掘りおこされてうれしげな邑

           (レポート)
 「うれしげな」という形容詞から、スコップか鍬で掘り起こされ、陽の光をあびてほっこりした土の塊を思い描いた。これは地中に生きる虫たちのコロニーや棲み分け、そいういったものを表現しているのだろうか。掘り起こされてたっぷり酸素を吸える土や微生物や虫たちの歓びがつたわってきた。  (真帆)
 

             (当日発言)
★私は次の歌(いただきゆ君が手をふる青あらし古墳そっくり抱きたくてわれ)との関連で掘りおこされたのは古墳だと思っていましたが、なるほど虫たちのコロニーというのも面白いですね。「無数の邑」という言いまわしにもぴったりですよね。そういう場面なら体験していますし。(鹿取)
★いろんな取り方ができますが、私は遺跡、縄文時代とかのイメージも重なっているのじゃないかと思いました。虫とかあらゆる地中の生物のような感じもするし。次の歌を読むと古墳でもあるし、いろんなものが重なっている感じ。(K・O)
★掘り起こされて喜んでいるのもポイントかな。中国の皇帝の古墳とかだと発掘されて人目にさらされるのは苦痛で地中にひっそり眠っていたかったのに掘り起こされてしまったという思いもあるでしょうが、ここは喜んでいる。古代の建物の遺構なんかは新しい風やら光が入って嬉しいかも。余計なことを言いましたが、この作者のポケットの多さに、とにかく凄いなあと思います。(鹿取)
                                                                                
      (後日意見)2019年5月追加
 この歌にもまた説明しようのない豊かなユーモアとひかりがある。もしかするとこの笑う邑は動物なのではないか。発掘された途端邑は無数の土竜(もぐら)となって太陽に手をかざしているのではないか――。

 (鶴岡善久)「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)

 

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 72 

2025-07-24 14:06:20 | 短歌の鑑賞

   2025年度版 渡辺松男研究2の10(2018年4月実施)
     『泡宇宙の蛙』(1999年) 【邑】P50~
     参加者:泉真帆、K・O、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:泉 真帆       司会と記録:鹿取未放          

          
72 木を否定することは木の本意とぞ針金のごとき若木が伸びる

           (レポート)
 「木を否定することは木の本意とぞ」という哲学的なこの上句をどのように捉えたらよいだろう。若木のするどく伸びるさまを強調しているようにも思えるし、自己否定しつつ伸びる若さの特徴をいっているようにも思える。もっと深遠な意味があるのだろうか。「針金」の語の斡旋は、無機質でつるつるで真っ直ぐな形状をイメージした。(真帆)


           (当日発言)
★「木を否定することは木の本意とぞ」というのは木の声なのでしょうか?否定しているところも肯定しているというか、木のエネルギーの濃さを感じます。「針金のごとき」という硬質の感じはやっぱり立ってくるというか、われわれに出された課題のようで、考えさせる歌の一つなのではないか。難しい歌だと思いました。(K・O)
★難しいですよね、直観的には分かる気がするけど。他のものに置き換えたら怒られるでしょうが、例えば伝統の継承には一旦伝統を否定して新しいものを出していかないとダメになってしまう、こんなアナロジーで考えてみました。「針金のごとき」は、若さの持つ鋭さとか直情の事かなと。あと、レポートの「自己否定しつつ伸びる」というところは私はちょっと違って、「木を否定することは木の本意とぞ」に沿うならむしろ親を否定する方が近いかなあと思います。親 を否定しながら成長する思春期。(鹿取)
★自分のルーツとかを否定している若者と重ねて最初書いていたのですが。分からなかったのは若木が伸びている様子を針金を強調したいために、自分は木ではないんだ、針金のように伸びていくんだと言っているのか。針金を言いたいために上を持ってきたのか、上の句を言いたいの か。(真帆)
★もちろん言いたいのは上句で、そこが一つのテーゼ。針金はあくまで比喩だし、針金は伸びないです。「木を否定することは木の本意」なんだけど否定することが結果的には大肯定に繋がるのでしょう。より豊かな生を生きるための一つの過程なんでしょうか。でも、あんまり人生に沿わせて読むと歌がつまらなくなりますね。(鹿取)
★「とぞ」は伝聞ですよね。これは作者が木そのものから聞いた、あるいは宇宙的なところから聞いたとか考えられるけど、誰から聞いたんだろうと思ったんですね。この「とぞ」の置き方が難しくて、作者がそのように断定しているわけではない。やっぱり宇宙的な、世界から聞いたというイメージなんでしょうか。ある本質をついている歌だと思うのですが、これを散文で説明するってすごく難しいですね。(K・O)
★そうか、私は木自身から聞いたと思いこんでいましたが、宇宙的な、何か大いなるものから聞いたとも考えられますよね。どちらにせよ以心伝心で。若木が言ったとしても宇宙が言わせているのかもしれないし、結局同じ事なんでしょう。(鹿取)

 

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 71

2025-07-23 09:57:21 | 短歌の鑑賞

 2025年度版 渡辺松男研究2の10(2018年4月実施)
    『泡宇宙の蛙』(1999年) 【邑】P50~
      参加者:泉真帆、K・O、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:泉 真帆       司会と記録:鹿取未放          

          
 71 もぎたてのなまあたたかきトマト吸いみんな子どもは火山の噴火

           (レポート)
 「もぎたてのなまあたたかい」というのだから、太陽の照りつける畑で、子たちが手づからトマトをもいで食べている、体験学習の授業かなにかの一場面だろうか。どの子も口一杯にしたたるトマトを吸い、まるで火山の噴火のように口のまわりにトマトの汁をつけ、汚れも気にせず食べているのではないだろうか。それとも、「みんな」の語には、子どもという生き物は火山の噴火のように元気を発するのだなあ、という作者の驚きがあるのだろうか。(真帆)


           (当日発言)
★レポートで「体験学習の授業かなにかの一場面だろうか」とありますが、そういう統制された場面だと「火山の噴火」のダイナミックさ、自由奔放さには繋がりにくいと思います。たとえば下校途中、自分の家のとか友人の家のとか畑の傍を通っていて、まっ赤なトマトがなっていたらみんなでもいで食べるんですよ、私は田舎の子だからこういうのよく分かります。「子ども」っていうものは「火山の噴火」みたいにダイナミックだって感嘆している。(鹿取)
★「なまあたたかき」というところにすごく体感がある。ずーとひらがなで続けて、考え抜かれた歌だと思いました。「吸い」で惑わされるのですが、自分の過去の体験と目の前の子どもとのクロスオーバー感を出すための重層的な表現かなあと思いました。「火山の噴火」はかわいらしい気もするし怖ろしい気もする。子どもの口が赤くて噴火口みたいなんですよね。そこに野生も感じさせます。また「火」を二つ据えたところも、「子ども」だけじゃなく「みんな」を付けたところも計算された「技」 を感じます。(K・O)

 

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 70

2025-07-22 10:25:56 | 短歌の鑑賞

2025年度版 渡辺松男研究2の10(2018年4月実施)
     『泡宇宙の蛙』(1999年) 【邑】P50~
    参加者:泉真帆、K・O、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:泉 真帆       司会と記録:鹿取未放          


70 風ひかる関東地図にみずいろの巨木坂東太郎がそよぐ

      (レポート)
 おおらかな心躍りをもって自然を詠んだ連「邑」八首。その冒頭の一首であるこの歌は、これから始まる物語を鳥瞰し爽やかだ。坂東太郎は利根川の異称だが、関東地図をみているとこの利根川が水色の巨大な樹木に見えたという。初句「風光る」が結句まで響きわたり、巨木の葉が風にそよぐさまを詠いつつ、木の葉の一枚一枚のように風にきらめいている川瀬を悠々とした抒情で楽しませてくれる。巨き木ではなく「巨木」と漢語を使ったことで一首は引き締められ、坂東太郎の堂々たる姿が立上がった。(真帆)


      (当日発言)
★松男さんの歌の特徴がよく現れている。地図という二次元のものを見ていて、坂東太郎がいきよいよく飛び出してくる。「みずいろ」がひらがなに開かれているのも行き届いた配慮だ。連の冒頭におくによい素晴らしい一首だと思う。(K・O)

 

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