■メイン写真
マブシ嶺の大展望
■今回のコース
大台ヶ原駐車場→尾鷲辻→白サコ→地倉山→雷峠→マブシ嶺→(往路を戻る)→白サコ→
堂倉山→尾鷲辻→大台ヶ原駐車場
朝方まで雨が残り、夜には再び雨が降るという気象予報だが、日本海の小さな高気圧が
前線を押し下げて、昼の間はどうも天気はもつのではないか。
多分、大台ヶ原付近はガスっているだろうが、霧の中の樹林帯も綺麗なので山行は決行。
フタを開けてみれば早々に霧は消え、折からの強風に雲は飛ばされて、ゴールのマブシ嶺には
青空が広がっていた。
スタートは大台ヶ原駐車場。気温15度。中道を行く。しばらく進んだところでは
法面の工事が行われていた。
あずま屋が建つ尾鷲辻で小休憩をはさみ、南に続く山道に入る。これが歴史ある尾鷲道である。
古くから尾鷲と上北山の交易路であった尾鷲道は、アップダウンを極力避け、歩きやすい
ように作られている。昔の人はすごいなあ。
従って、尾根を忠実にたどるようなルートではなく、トラバースが多い。
昔、森林伐採のトロッコが並走していた区間もあり、道幅が広いところも残っている。
尾鷲辻あたりまでは薄い霧に包まれていたが、いつの間にか青空が出てきた。
曇天を覚悟していただけに、ただただ嬉しい。
ブナ、カエデ、シナノキ、ミズナラ、ヒメシャラなどの美林は生態系が豊か。
視線をミクロに転じていくと、いろいろなコケやキノコの世界が広がる。
途中、岩が重なり合ったところでは、岩の隙間から清冽な水が勢いよく湧いていた。
堂倉山を巻くと、白サコの平坦地に出る。
昔の書物では「白カケ」、「柱カケ」とされる場所だ。
大樹に癒される。とにかく樹林が美しいのだ。
倒れかけても命をつなぐ樹々。
P1414を巻き終えたあたりの鞍部から大蛇嵓を望む。
P1382を巻き始めるあたりからは東側に海が見える。この日、初めて見える海に
気分が盛り上がる。
このあと、アリノキ峰も一緒に巻く。「アリノキ」の語源は唐梨(ありの木)らしいが
ベニリンゴまたはカリンの木があったのだろうか。
地倉山の手前で明瞭な尾根に出る。
ここからの眺めもすばらしい。
正面(西側)に竜口尾根の盟主・又剣山が対峙する。奥の雄大な山脈は大峰山脈。
地倉山のピークは樹林に囲まれている。
雷峠を経て、シロヤシオの若木が茂っている尾根をたどる。
小ピークを過ぎたところが今日のゴール、マブシ嶺である。
「嶺」の字が充てられているがピークではない。むしろ江戸時代後期、紀伊藩の本草学者
畔田翠山が記した「マブシ峠」という表現がふさわしい気がする。
最近までここは「コブシ峰」とも呼ばれていた。古い標識がそれを物語る。
しかし、畔田翠山は「和州吉野郡群山記」で「マブシ峠」と書き、
北海道の名付け親で大台ヶ原探検を行った松浦武四郎は「乙酉掌記」(写真)で「マブシ嶺」と
書いている。明治中旬以降の人間が、「マ」の字を、「コ」と読み間違えたというところか。
京都の比叡山の北にある「梶山」が、戦後いつの間にか「大尾山」に間違われたように
山の名前は単純な勘違いで変貌することもある。
三角点のあたりからは太平洋が一望できる。
尾鷲の町も眼下に見える。天狗倉山が見えているような、見えないような。
しばらくマブシ嶺で眺めを楽しみ、元の道を帰る。
ロングルートなので、パーティーの疲労も垣間見えたが、白サコからもうひとがんばり、
往路では巻いてきた堂倉山にも寄ってみた。
無線中継所は、このルート唯一の建造物と言える。
堂倉山は、おそらくはかつて槙塚(マキツカ)とされたピークに該当するだろう。
今でも尾鷲道は小ピークを巻いているので「巻き塚」の意味だったのかな?
こういう想像も楽しい。ピークというが、実際に行ってみると広い台地状になっている。
尾鷲道に戻って、メンバーの鈍る足を励ましながら、尾鷲辻へと登り返し、
中道を大台ヶ原駐車場へと戻った。夕方になって、駐車場にはまた薄い霧がかかり始めた。
マブシ嶺の大展望
■今回のコース
大台ヶ原駐車場→尾鷲辻→白サコ→地倉山→雷峠→マブシ嶺→(往路を戻る)→白サコ→
堂倉山→尾鷲辻→大台ヶ原駐車場
朝方まで雨が残り、夜には再び雨が降るという気象予報だが、日本海の小さな高気圧が
前線を押し下げて、昼の間はどうも天気はもつのではないか。
多分、大台ヶ原付近はガスっているだろうが、霧の中の樹林帯も綺麗なので山行は決行。
フタを開けてみれば早々に霧は消え、折からの強風に雲は飛ばされて、ゴールのマブシ嶺には
青空が広がっていた。
スタートは大台ヶ原駐車場。気温15度。中道を行く。しばらく進んだところでは
法面の工事が行われていた。
あずま屋が建つ尾鷲辻で小休憩をはさみ、南に続く山道に入る。これが歴史ある尾鷲道である。
古くから尾鷲と上北山の交易路であった尾鷲道は、アップダウンを極力避け、歩きやすい
ように作られている。昔の人はすごいなあ。
従って、尾根を忠実にたどるようなルートではなく、トラバースが多い。
昔、森林伐採のトロッコが並走していた区間もあり、道幅が広いところも残っている。
尾鷲辻あたりまでは薄い霧に包まれていたが、いつの間にか青空が出てきた。
曇天を覚悟していただけに、ただただ嬉しい。
ブナ、カエデ、シナノキ、ミズナラ、ヒメシャラなどの美林は生態系が豊か。
視線をミクロに転じていくと、いろいろなコケやキノコの世界が広がる。
途中、岩が重なり合ったところでは、岩の隙間から清冽な水が勢いよく湧いていた。
堂倉山を巻くと、白サコの平坦地に出る。
昔の書物では「白カケ」、「柱カケ」とされる場所だ。
大樹に癒される。とにかく樹林が美しいのだ。
倒れかけても命をつなぐ樹々。
P1414を巻き終えたあたりの鞍部から大蛇嵓を望む。
P1382を巻き始めるあたりからは東側に海が見える。この日、初めて見える海に
気分が盛り上がる。
このあと、アリノキ峰も一緒に巻く。「アリノキ」の語源は唐梨(ありの木)らしいが
ベニリンゴまたはカリンの木があったのだろうか。
地倉山の手前で明瞭な尾根に出る。
ここからの眺めもすばらしい。
正面(西側)に竜口尾根の盟主・又剣山が対峙する。奥の雄大な山脈は大峰山脈。
地倉山のピークは樹林に囲まれている。
雷峠を経て、シロヤシオの若木が茂っている尾根をたどる。
小ピークを過ぎたところが今日のゴール、マブシ嶺である。
「嶺」の字が充てられているがピークではない。むしろ江戸時代後期、紀伊藩の本草学者
畔田翠山が記した「マブシ峠」という表現がふさわしい気がする。
最近までここは「コブシ峰」とも呼ばれていた。古い標識がそれを物語る。
しかし、畔田翠山は「和州吉野郡群山記」で「マブシ峠」と書き、
北海道の名付け親で大台ヶ原探検を行った松浦武四郎は「乙酉掌記」(写真)で「マブシ嶺」と
書いている。明治中旬以降の人間が、「マ」の字を、「コ」と読み間違えたというところか。
京都の比叡山の北にある「梶山」が、戦後いつの間にか「大尾山」に間違われたように
山の名前は単純な勘違いで変貌することもある。
三角点のあたりからは太平洋が一望できる。
尾鷲の町も眼下に見える。天狗倉山が見えているような、見えないような。
しばらくマブシ嶺で眺めを楽しみ、元の道を帰る。
ロングルートなので、パーティーの疲労も垣間見えたが、白サコからもうひとがんばり、
往路では巻いてきた堂倉山にも寄ってみた。
無線中継所は、このルート唯一の建造物と言える。
堂倉山は、おそらくはかつて槙塚(マキツカ)とされたピークに該当するだろう。
今でも尾鷲道は小ピークを巻いているので「巻き塚」の意味だったのかな?
こういう想像も楽しい。ピークというが、実際に行ってみると広い台地状になっている。
尾鷲道に戻って、メンバーの鈍る足を励ましながら、尾鷲辻へと登り返し、
中道を大台ヶ原駐車場へと戻った。夕方になって、駐車場にはまた薄い霧がかかり始めた。