Mr.Dashのぶろぐ館

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2024年1月14日(日)[岡山]鬼ノ城、古代の朝鮮様式の山城跡と、巨岩の古刹をめぐる!!

2024年01月16日 | 山登りの記録
■メイン写真
鬼ノ城のシンボル的存在、再建された西門


■今回のコース
鬼城山ビジターセンター駐車場→鍵岩展望台→西門→第1・第2水門→南門→岩切観音→
第4水門→東門→あずま屋→第5水門→高石垣(屏風折れ)→温羅遺跡碑→北門→市道出合→
岩屋休憩所駐車場→皇の墓→岩屋寺本堂→毘沙門堂→鬼の差し上げ岩→鬼の餅つき岩→
鯉岩→八畳岩→屏風岩→馬頭観音→汐差岩→方位岩→分岐→岩切観音→分岐→犬墓山→
鬼城山ビジターセンター駐車場



岡山県の個性的な山城めぐりの2日目。
朝、ホテルの窓からは岡山城と後楽園が見えた。

この日は、総社市にある鬼ノ城(きのじょう)を訪ねる。
古代の朝鮮様式の山城跡で、これほどまで規模が大きく、状態がよいものは珍しい。
築城時期は「史書に記載がある大野城(665年築城開始)などと同時期とする説、
それより先行する説、それより後とする説などがあるが、現在では7世紀後半に
築かれた可能性が高い」という。



鬼城山ビジターセンターに到着。充実した展示コーナー(無料)がある。
ここは帰ってきてから見学させてもらおう。



西門までの道は、なんと車椅子でも行ける設計になっていた。
まずは鍵岩展望台へ。デッキから、すばらしい眺望が得られる。



すぐ先に、西門の姿も。



西門は当時の様子を想像して再現されている。
特異なデザインは、まるで、ここが日本ではないような気分になる。

鬼ノ城は、白村江の戦いでの敗戦後、唐と新羅の連合軍による逆襲に備え、大和朝廷が
九州から生駒山系の高安山に至るまでの間に16の朝鮮式山城を築いたと、日本書紀に記載
されているそうだ。
わざわざ、敵方にとってなじみが深い形の城を造る意味が分からないが。

また鬼ノ城は、古代吉備地方の有力者であったとされる鬼の「温羅(うら)」の本拠地と
いう伝説もある。
温羅は、第7代孝霊天皇の皇子である吉備津彦命に退治されるのだが、これが
桃太郎の鬼退治の原型とする説もある。
吉備津彦には三人の家来がいて、それぞれ犬養縣主(犬)、猿女君(猿)、鳥飼臣(雉)という
名前だったとの話もあって、なかなか興味深い。
ちょっと築城の時期が合わない気もするが、話としては最も楽しい。

なお、この地方はタタラ製鉄の痕跡も残っているので、温羅の正体は渡来人だったの
ではとの説もある。日本人に技術を教えた「家庭教師の渡来(トライ)人」だったりして。



築城当時の列石。要所に解説板があるので、見逃すことがない。



第2水門の石垣。排水溝がつけられている。



南門。西門同様、四角い柱が当時の技術の高さを物語る。



南門横の高石垣から絶景を楽しむ。吉備の平地が一望できる。古代豪族の王様の気分。



岩切観音。「五番」と刻まれた千手観音の磨崖仏だ。
西国三十三札所の第五番・葛井寺のご本尊が千手観音なので、この磨崖仏は、
かなり後世になってからのものだろう。



東門。ここの柱の穴は丸いのが特徴。できた時期が違うのか、謎が深まる。

続いて立ち寄った鍛冶工房跡には、9基の鍛冶炉跡が出土している。
鬼ノ城を築くために使用した鉄製の道具を製作した場所だという。



屏風折れの石垣。初めて東側の展望が得られる。



眼下に血吸川が見える。簡単な沢登りに向く沢だ。「吉備津彦命が放った2本の矢のうち
1本が温羅の左目に命中し、目から噴き出す血で清流が真っ赤に染まった」といわれる。



「温羅遺跡」の石碑。昭和12年に建てられたもの。戦前から観光地として注目されて
いたのだ。



北門。このまま城跡を一周することもできるが、ここは門をくぐって、岩屋へと向かう。
これは「総社ふるさと自然の道」の順路でもある。



ほどなく市道に出て、20mほど東で、岩屋へ向かう旧道に入る。
歩きやすい、幅広の道だ。



岩屋休憩所駐車場に到着。あずま屋とトイレがある。
ちょうど昼時になったので、ここでランチタイムをとった。
鬼城山ビジターセンターに戻りたいが道が分からなくなったというおばちゃんパーティに
道を教えてあげたが、誰も地形図を持っておらず、標識に延命を預けていたのには驚いた。



まずは皇(みかど)の墓に立ち寄る。
文武天皇(在位697~707年)の皇子が7歳の時に開いたとのこと。皇子は後に善通大師と
なり、70歳で亡くなるが、その墓だといわれている。
皇族ならば墓とその周囲は宮内庁の管理となるはずだが。。。
文武天皇は、聖武天皇の父だが、善通大師の名は、文武天皇側からサーチしても
出てこない。墓石は南北朝時代ころのものだという。
吉備津彦命に討たれた温羅の胴体を埋めた場所でもあると伝わる。



岩屋寺本堂に到着。簡素な作りで、寺という雰囲気は薄い。
岩屋寺は、元は近くの新山寺に属していたとのことだが、平安末期には新山寺と共に
山岳仏教の拠点として盛時には38坊を数えたという。



毘沙門堂。コンパクトな造りだが、こちらは寺らしさを保っている。



すぐ裏手に、鬼の差し上げ岩がある。
温羅が住処にしていたとも伝わる。



岩の下の小さな祠には、不動明王の線刻がある。



胎内くぐりができるようになっている。かつての山岳仏教の行場の匂いがプンプン。

三十三札所の石仏が順に並ぶ周回路を西へ上っていく。



鬼の餅つき岩には、よじ登ると直径60cmくらいの浅い円形の窪みがある。



鯉岩。かなり想像力を研ぎ澄ませないと鯉には見えない。
吉備津彦命に追われた温羅は、鯉に化けて逃げたのだが、吉備津彦命は鵜に化けて
温羅を捕らえたとされる。



八畳岩は、まさにそれくらいの広さの平らな岩だ。



屏風岩。
横手からよじ登れ、絶景が待っているが、ちょっとテクニカルな登攀となる。



馬頭観音の祠で、道は左に90度折れて、下りにかかる。



すぐに汐差岩。岩上からは、果たして瀬戸内海が輝いて見える。
その向こうは四国の陸影が横たわる。
さらに下には、北を示すといわれる方位岩がある。
まったく、ユニークな巨岩が次々に現れて飽きないが、おかげでペースメークが
できない。



岩切観音に立ち寄る。荘厳な雰囲気の巨岩に磨崖仏が彫られている。
ここから分岐を皇の墓に戻ることもできる。



犬墓山の山頂そのものは平凡だが、分岐を30mほど左に行くと、休憩ベンチが
設置された展望所がある。



ここからは鬼ノ城の西門が見下ろせる。



歩きやすい雑木林を一気に下ると、スタート地点の鬼城山ビジターセンターに戻る。
下山後、展示コーナーを見学したが、パネルを読めば読むほど、謎が新たな謎を呼ぶ、
不思議な後味を感じた。
いろんな山城を訪れてみたが、これほど"日本離れ"した、謎に満ちた城は初めてだ。
今後の発掘や研究で、事実が明白になるのを期待しつつも、一方ではいつまでも謎が
解けないでいてほしいとも思うのである。

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