だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

花祭の夜に(その2)

2006-01-04 00:18:49 | Weblog

 2006年のお正月は豊根村で過ごすことができ、2日夜の下黒川の花祭を見に行った。こどもを宿で寝かせつけて、夜中の3時すぎごろ舞堂に着いた時には、ちょうど榊鬼(さかきおに)の舞がはじまったところだった。大きな赤鬼が、四隅をにらみつけていた。そのうち、鬼の舞が激しくなると同時に、私がびっくりしたのは、鬼を取り囲む若者達の元気のよい歌ごえだった。いっしょに踊りながら、こちらが「てーほへ」と呼べばあちらが「てほへっと」と応える。笛の音などかきけされて聞こえない。単なるかけ声ではなく、旋律を歌っている。
 この村のひとつの集落にこんなに若者がいたのか、と思う。高校生から大学生ぐらいの子たちが30人ほど、男の子も女の子も大声で歌いながら踊っている。鬼は、大きなまさかりを振り回し始めた。皆その動きを心得ているらしく、ぶつかる寸前のところでさっと引く。そういうまわりの人間の動きは鬼の舞の一部とも言える。その若者たちの表情といったら、ひとりひとりがこの世の幸せを一身に受けているかのような、屈託のない笑顔だ。鬼の舞も若者達の歌と踊りも最高潮に達した。ひとりの鬼はもう倒れ込んでいた。拍手と歓声があがる。
 そうすると、さっと、お面をかぶった白装束の男が二人でてきた。手にはすりこぎとしゃもじに味噌が盛られている。それを、若者の顔に塗りつけ始めた。あちこちで悲鳴と笑い声があがる。みな、べっとりと顔に味噌でペインティングされた。おたがいに顔を見合わせながらにやにや笑っている。たまたまではあるが、同じ年代にひとつの集落に生み落とされた仲間であることを確認しているのだ。

 若者達の歌と踊りは、花祭全体のクライマックスである湯囃し(ゆばやし)で再現された。舞手は4人の若い男たちである。舞いはじめてもう1時間半はたっている。外は雪がちらつきはじめしんしんと冷えているというのに、顔を真っ赤にして汗びっしょりだ。彼らをはげますように、一時休憩からもどってきた若者たちが、声をあわせ、いっしょに踊り始める。舞の波が寄せてはひくごとに、皆のボルテージがあがっていく。気がつくと、舞庭は上半身裸のおとこたちでいっぱいで、舞手といっしょに大きな声で歌いながら舞っている。そして、突然、噴火した。という表現しか思いつかない。舞手は手にもったわらで編んだ扇を釜につけて湯をしみこませたと思うと勢いよく周囲にかけはじめた。もうもうと湯気があがる。湯にはこの国のもろもろのカミがおりてきている。そのカミと一体になるのだ。悲鳴とも歓声とも雄叫びともつかない声があがる。気づくとみんなびしょびしょだ。
 最後に、もうもうとした湯気の中で4人の舞手がしめの舞を行う。この世のものとは思えない光景だった。それが終わると、みな、びっしょりながら、ほっとしたような表情で、別れを告げて家々に帰っていった。

 私は、全国をくまなく歩いた民俗学者宮本常一の文章を思い出していた。「古い村社会の中では民俗芸能は自分たちが楽しむために存在したのである。そして、見ている方も踊っている方も、しまいには一つになってしまって、観客も演技者も区別がつかなくなった。いまの若い人たちのゴーゴーなどの踊りとそっくりであった。愛知県三河山中の花祭なども、そのよい例である。はじめのうちは観客は見ているだけだが、夜がふけて来るとみな踊っている。それが楽しいのである。それがまた、古い祭の姿でもあった。」(宮本常一著作集12p.312)「ゴーゴー」というのは、80年代ならディスコ、今ならクラブかもしれないが、ともかく、宮本は確か1950年代に下黒川の花祭を見ている(要確認)。つまり、私が体験したのとほぼ同じ光景を宮本も50年前に体験しているのだ。変わったところといえば、まわりで踊っている若者の髪の毛の色が茶色になったことぐらいだろう。

 ただ、決定的に違っているところがひとつある。この若者達は、今は村に住んでいないのである。高校生も大学生も親元を離れて下宿生活である。その先、村に帰ってくるのはごく一部にすぎない。湯囃しが終わっての別れ際のあいさつは「また来年な」であった。年に一度、花祭の夜に再会し、そして別れるのである。今の20歳代は豊根村全体で一学年20人ほどであった。それが今では10人を切る。もう10年たつと、若者達の元気な歌と踊りは、このようなにぎやかさではありえないのだ。
 前回見に行った山内の花祭は、下黒川のようなにぎやかさはなかった。その分、神妙な雰囲気があり、これが古いやり方なのかなとも思ったが、そうではないようだ。つまり、こどもの数が減って、花祭から若者がいなくなった姿のようである。山内は他の集落の花祭の情景を先取りしているとも言える。

 あの若者達のなんともいえない幸せそうな表情が目に焼き付いている。つくづく、日本の山村をどうもりたてていくのか、ということがとても大切でしかも緊急を要する課題かと思う。そこは、森林や水など、自然の資源に恵まれているだけでなく、人間の幸せという「資源」もたぶんどこよりも豊富にあるところなのだ。花祭が衰微し、消滅するということは、この世界から、ひとつの幸せのカタチが消滅するということだ。
 そしてめまいがしそうなのは、50年以上前に、宮本常一は、ほとんど同じことを考えて、全国を歩き、調査をするだけでなく、さまざまに政策提言を行ったり地域づくりや社会運動に貢献したのである。しかしながら50年たって、宮本が怖れていた将来が現実のものとなりつつある。即効性のある妙案などないのは分かっているが、宮本が各地で試みたように、あの若者達と知恵をしぼってみたいと思うのである。
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