だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

存在する可能性の波がさざめく

2010-03-17 23:50:33 | Weblog
 この3日間は名古屋大学で開催された一連の国際会議に参加。私もコアメンバーとして参画しているグローバルCOEプログラム「地球学から基礎・臨床環境学への展開」のキックオフとなる国際ワークショップだった。海外からのスピーカーの中で、ドイツの有名なマックスプランク研究所の元所長のハンス・ピーター・デュール先生のお話が印象に残った。
 デュール先生は核物理学者で、戦後のアメリカでアインシュタインやボーア、ハイゼンベルグ、テラーら、そうそうたる顔ぶれに混じって活躍した。テラーから水爆開発研究へ携わるよう誘われたらしいが、一切の軍事研究への関与を拒否して、ラッセル-アインシュタイン宣言に関わるなど、物理学者による平和運動に携わった。

 デュール先生の講演は世界観に関わるかなり難解な話で、私の英語力ではうまく聞き取れなかったのであるが、ときおり耳に入ってくる話の断片が心に残った。
 私たちは19世紀のマインドセットに20世紀の技術で生活しているとのこと。どおりで行き詰るはずである。世界を何事もどこまでも分け続けることで理解しようとするやり方はもうやめて、ホリスティックな理解の仕方に乗り出そうと呼びかけた。

 19世紀的世界観で生きている私たちは、物質が存在することを自明として考える。例えば、私たちの物質的な欲望というのはその自明性に立脚している。しかしながら、量子力学はその自明性を覆した。量子力学によれば、物質の存在の真の実体とは、「確率波」すなわち「物質が存在する可能性の波」の重ね合わせである。それがプラスになった時と場所に物質は存在する。確率波の重ねあわせがたまたまゼロになれば物質は存在しない。しかもこの波の振幅をあらわす「量」はこの世界に居場所のない虚数なのである。また物質が存在するのはある特定の場所であるが、その実体とも言うべき「物質が存在する可能性の波」は宇宙全体に広がっている。
 なんだか禅問答のようであるが、これが私たちが大学の教養課程において物理や化学の授業で習う初歩的な内容である。そのように考えなければ私たちは水素原子の存在すら理解できないのである。

 ここからは私による論理の飛躍である。このわかったようでわからないことで私たちの世界が成り立っているということを深く認識するならば、私たちの日常の風景はよほど違って見えることだろう。モノとは波の重ね合わせのあやにすぎないとすれば、少なくともモノにこだわる気持ちはうすらいでくる。また自分についてのこだわりもなくなってくるだろう。19世紀的マインドセットによれば、自分にとってもっとも大切なのは自分である。でもその存在が波のあやにすぎないとすれば、そうこだわる必要もない。私も波、あなたも波。猫も草も机も自転車も波。どこまでが自分でどこからが宇宙かよくわかない。ならば宇宙に広がる波に乗ってふわふわ楽しめばよい。

 デュール先生は、会場から出た「どうやったらそういうことを万人が理解できるのか?」という質問に対して「感じることが大事だ」と応えた。その真意はよくわからなかったが、もしかしたら感覚を研ぎ澄ますことによって「物質が存在する可能性の波」を感じることができるのか?私はそういうこともあるかもしれないと思う。私は先生の講演が終わり次のスピーカーが話し始めると、会場を抜け出して正面に森が見えるラウンジに行ってみた。なんとなくそうするのが自然のような気がしたからだ。森の木々の波たちが私の波を呼び寄せたのかもしれない。
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