だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

教育改革私案・初等教育編

2013-10-09 10:17:14 | Weblog

 

 私の知り合いのお子さんが「宿題をやりたくない」と小学校に行かないようになったと聞き、それでも家でいろんな仕事のお手伝いをしたり自分でインターネットや図書館で学んだりしているという話を聞いて、小学校から大学・大学院にいたる現在の学校制度が根本的に時代にそぐわなくなっていることに対して、なんらかのアクションを起こさなくてはいけないと思うようになった。

 今の日本の学校制度は制度的には明治の学制からはじまって、戦後の教育改革をへて成立したものであるが、その中身は高度経済成長時に完成したといっていいだろう。近代社会における学校は、社会の求める人材を効率よく育成し、それぞれの持ち場に配置していくための「人材流通機関」である。高度成長の時代に求められたのは、大量生産の現場で働く大量のブルーカラー労働者と、それを動かしていくために出現した大量の管理・事務の仕事を担う男女のホワイトカラーである。全体の流れを乱さず、指示されたことを黙ってそつなくこなす人材。指示を的確に理解し、自分の仕事が何をやっているかを理解する知識とマニュアルを読んで理解するほどの学力が必要である。
 全国的に画一化された教育内容、実験や体験を軽視した「つめこみ」型の教育方法、ことあるごとに実施される大小の試験によって達成度を測る評価方法などはそのような人材育成にもっともふさわしいやり方だった。宿題というのは一種の「ノルマ」の練習といえるだろう。

 そして21世紀。人口が減少しはじめた日本では経済も縮小に向かう。大量生産を行う企業の大規模工場は市場が狭まっていく日本をあとに海外に出ていった。残った工場でもその現場で働いているのは日本人の若者たちではなく、外国からの出稼ぎ労働者である。管理部門は経営に直結する部分のみが残り、日本で採用される人材は将来の幹部候補生である。企業の幹部として経営に携わるような人材の教育は日本の学校ではほとんど行われておらず、まったくのミスマッチである。

  現在の学校は、知識を習得するという意味で言えば非効率である。宿題とか試験とか、子供たちにプレッシャーを与えるやり方が多すぎて、学ぶ意欲を引き出すことができない。いやいややって何かを習得するというのはとても難しいことだ。例えば、高校卒業資格を得るための試験は、やる気になれば一人で数か月勉強すれば合格できるという。いったい学校では何をやっているのだろうか。

 大企業の求人が減り、求められる人材の質が変わるなかで、雇用されて働くのではない生き方・暮らし方が、都市でも農村でも若い人たちや女性を中心に模索されている。身の丈起業、ソーシャルビジネス、コミュニティビジネス、そして農林業、手作りの料理や食品加工、手仕事、心と体のケア。そもそもお金に頼りすぎない暮らし、お金を稼ぐための時間を減らして自給的な暮らしの営みを重視するライフスタイル。これらを求める動きはもう社会の中で無視できない流れとなっている。

 そのような暮らしを営むために必要な最低限の知識は何だろうか?それにそって教育内容を考えてみたい。まずは中学卒業までに習得しておきたい内容を私案としてリストアップしてみよう。

◆算数・数学 足し算、引き算、掛け算、割り算、割合の考え方、分数の四則、数直線、小数、負の数、グラフ、一次関数、一次方程式、連立方程式

◆理科 天体の運行(地動説)、温度と熱、力のつりあい、運動の法則、電気

   原子、元素、周期律表、分子、イオン、濃度、化学反応

   生物の分類、植物と動物の体のつくり、栄養、食物連鎖、性と生殖、森林生態

   地球の出来方、地震、火山、地質、プレートテクトニクス、水循環、気象

◆社会 日本の歴史、世界の地理・文明史、地域社会、里山里海の暮らし、憲法と社会制度、国際社会、グローバリズムとローカリズム、多文化共生

◆国語 本の虫になること、自分の気持ちや考えを文章で表現できるようになること

◆外国語 外国人と日常のコミュニケーションができるようになること

 これだけのことを9年間で習得すると思えば、かなり余裕があるのではないだろうか。一見高度に見える内容も、意欲さえ引き出してあげれば、小学校の高学年にもなれば大人顔負けの理解力を示すものである。それぞれの単元に学年に合わせて象徴的・代表的な体験、観察、調査、実験を取り入れたプログラムを考えることはそれほど難しくないような気がする。というか、そのような体験的学習につながる範囲としてそれぞれの学年の教育内容の広がりを考えればよい。

 それぞれの教科の5人の教師に、1学年8人×9学年で72人の生徒。基本的に半日授業(午前と午後の入れ替え制)。残りの半日で体験プログラム。これには地域のシニア世代にボランティア(プロボノ)で貢献してもらう。管理運営は保護者のボランティアで。校舎は廃校となった学校を使う。これで難しいことを言わなくても、子供を塾に行かせるような月謝で運営できるのではないだろうか?いなかでも都市でも公立学校の統合・廃校のタイミングにあわせて、このような新しい学校をつくるというのも一案だろう。
 実際にアクションを起こそうと思うと、ちょっと考えただけでも山のようなハードルを思いつくけれども、非常に困難なこともこうやって「わめいて」いると(それが本当に必要なものなら)いつか実現する、というのが私の世界観である。

 

 

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1 コメント

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no philosophy (noga)
2013-10-09 19:30:43
特亜三国 (日本・韓国・中国) の言語には時制がない。
だから、特亜三国人には時制のある印欧語 (英語など) の理解が難しい。
考えの内容が、現世の中に戸閉められている。
‘来たるべき世’ の内容を脳裏に展開する余地がない。

遠い未来の行き着く先が、どのような有様であるかが問題である。この内容は、「あるべき姿」と呼ぶこともできる。
それに答えが与えられないのが教養の無さである。
これは、古今東西の事柄をよく覚え暗記しているのとは、次元の違う知的な状態である。
常に「あるべき姿」を念頭において、現実対応策を割り出すことが人間にとって大切である。
領土問題や歴史教科書の問題を検討するときにも、常に、こうした態度が保たれていなくては励むこと自体に意味がない。
未来社会の建設に資するように、議論を進めるべきである。

‘あるべき姿’ (非現実) の内容を ‘今ある姿’ (現実) として語ったら、それは真っ赤なウソとなる。
それは、ちょうど、時制のあるサンスクリット (梵語) で書かれている経典を、時制のない中国語に翻訳するようなものであろう。
非現実の世界の内容に辻褄を合わせ、さらにそれを現実化する方法を思いつけば、それは創造である。
現実に存在する内容を他所で再び現実化すれば、それは模倣である。
特亜三国 (日本・韓国・中国) の民は、創造が苦手で、模倣が得意である。

遠い未来の内容と、遠い過去の内容は、非現実の内容である。これらは、未来時制と過去時制により表される。
非現実の内容に矛盾がなければ、それは理想になる。矛盾があれば、それは空想になる。
非現実の世界の内容に辻褄を合わせることができないのは、三国の言語に時制がないからであろう。

教育機関も、創造力の育成にはならずして、模倣力の育成になる。
貿易も、創造力の競争にはならずして、模倣力の競争になる。
後者の競争は、前者のものよりも個性に乏しく過酷である。人間性にも乏しい。

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