だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

電気が通るということ

2009-06-14 18:44:11 | Weblog

「夜這いという遊びの社会には、一定の秩序と規制があり、平等感覚があった。そして逸脱もあったかも知れないが、この村の一部では戦後も続いてあった。その風習がなくなったのは電灯の普及による生活の変化にあった。昭和38年7月に中部電力から通電されたことは、村の夜の生活風景を一変させ、夜這いの遊びも終わった。・・・
 それまでの村の自家発電では、テレビを観ることはできなかった。それが可能になったことが、約めていえば、老人を仏間からテレビの前へ、家長を横座において囲炉裏の間の席順をテレビ中心に変え、若衆をその前に引き寄せてしまった。それと同時に村の共同意識が音もなく緩んでいったことに、人々が気付くのは間もないことだった。」大牧富士夫『ぼくの家には、むささびが棲んでいた-徳山村の記録』SURE2007年

 名古屋は伏見の都心に中部電力の「電気の科学館」がある。この展示の中で私がもっとも印象深かったのは、中部電力の系図である。明治の半ば頃から次々に立ち上がった小さな発電会社は、数十に上っていた。中には加子母村など、私にとってはおなじみの地域の名前もある。皆でお金を出し合って水車を設置し、電線を引いて、最初に小さな電灯がともったというのは、この地域の山村でどこでも聞く話である。それが1940年代に突然一つにくくられ、それは太平洋戦争を遂行するための国家総動員体制の一環であった。それは戦後すぐに設立された中部電力株式会社に引き継がれる。中部電力は送電線を引くのと引き替えに小さな水車を廃止していった。ダムに沈んだ水車もたくさんある。

 豊田市足助椿立自治区が発行した『椿立家族ものがたり』にも、最初に電気がやってきた光景が描かれている。ある業者が水車を設置し、皆はバッテリーを大八車に乗せて充電しに行った。半日充電すれば1週間ほど電灯がともったという。最初に電灯がともって見えたのは障子のほこりだったという。
 ほとんど同じような話をネパールの山奥の集落の話として聞いたことがある。そこは中国から小さなソーラーパネルとバッテリがセットになったものが入ってきて、はじめて家の中に小さな電灯がついたという。そこでまず起こった変化は、村人たちに衛生についての観念がでてきたことだという。

 アメリカのキリスト教団であるアーミッシュの人々が、世界一の文明国アメリカのまっただ中で暮らしながら電気を使わないのは、テレビを避けるためだという(ドナルド・B. クレイビル『アーミッシュの謎』論創社1996年)。アーミッシュはヨーロッパでの厳しい迫害に追われ、たいへんな犠牲を払って新大陸に渡ってきた。布教活動をいっさいしない彼らは、コミュニティのきずなをもっとも大切にしながら、子孫を増やすことで教団を大きくしてきた。テレビを観ることによって、人々の、特に若者の関心はコミュニティから離れていく。その力の大きさをアーミッシュの指導者たちは理解しているのである。

 電気があることは幸せである。だが、ありすぎる不幸やつまらなさというのもあるのではないか。もうすぐ夏至。今年も世界各地でキャンドルナイトが催されることだろう。明るすぎる電灯とテレビを消して、どれくらいの電気があるのが一番幸せなのか、静かに考えてみたい。
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2 コメント

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講座のお礼他 (神谷)
2009-06-20 17:38:38
今日の講座は研究室へお邪魔させていただいた
うえに、貴重な研究中の水耕栽培の様子などを見せていただきありがとうございました。

明日が夏至ですね。
ろうそく1本の光ってけっこう明るいですよね。自然の光にはかなわないな・・・と以前、
学生演劇の照明をやっていたときに感じたことがあります。

また、お会いできる日を楽しみにしています。

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Unknown (EPT事務局)
2009-06-29 19:18:25
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