だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

にぎやかな山里

2009-06-14 17:24:46 | Weblog

 名古屋大学1年生向け基礎セミナー「地球環境塾」の学生たちをつれて、豊田市足助新盛地区の菅田和集落におじゃました。ゼミ恒例の村での合宿である。菅田和は里山耕(さとやまこう)の舞台であり、地元のみなさんは都市住民との交流に熱心に取り組んでおられる。その取り組みの中で、山や田畑の整備になかなか人手が足りないというお話を聞いたので、この際、若い学生たちにそのお手伝いをしてもらおうという趣向だ。(→新盛×耕流×里山ブログ地球環境塾ブログ

 梅雨に入ろうとする時期でお天気が心配だったが、朝からさわやかな晴天。1年生の女の子たちはまずは田植えである。これは足助の卓抜な地域リーダー小澤庄一さんの小さな田んぼで行われた。山里で若い女の子が一列に並んで田植えをする光景というのが、小澤さんの夢のひとつである。ほとんどの学生ははじめての経験だ。ぬるぬるする泥に足をとられながら、それでも楽しく田植えができたようである。小澤さんの夢の実現にほんのちょっぴり貢献できたかもしれない。
 男の子たちと上級生は、里山耕の拠点施設建設予定地の整備をやってもらった。かつて開墾され田んぼだったところが耕作放棄され、柳の木が生え、竹が侵入していた土地である。一度木や竹の伐採が行われたものの、また竹が次々に顔を出す。学生たちはナタで伸びた竹を伐ったり、伐った竹を燃やす手伝いをしたりした。また、一番元気な1年生の男の子たちは排水のための水路を掘る重労働に挑戦した。
 私はというと、竹伐りに挑戦したものの長くは続かず。餅は餅屋と、ちいさならせん水車の模型で発電実験を行う準備作業にいそしんだ。
 お昼は、地元の皆さんが準備してくださったイノシシ肉のカレーライス。大きな竹を割ったお皿でいただいた。私たちが20人ほど、他にも里山耕流塾や市民農園で名古屋近辺からやってきた都市住民も20人ほどいただろうか。地元の皆さんもあわせてこの日はとてもにぎやかな山里だった。

 最後に振り返りで、学生たちひとりずつ感想を述べてもらった。「半日だけだから楽しいけれど、これがずっと続く日常だと思うとやっぱりたいへん」というのがすなおな感想である。ごく短時間だったけれども、山里で暮らすことの楽しさもたいへんさも自分の身体で感じることができたようである。実際の役にはあまり立たなかったと思うが、地元の皆さんにとっては、いつもは静かな山里でワカモノたちがわいわいやっているという光景それ自体がうれしかったのではないだろうか。

「私(イラ)の故郷徳山村は、日本一のダムになるということで昭和62年(1987年)3月に地図から消されました。町の者から見れば、『あんな山の中のどこが良うて』と思うだろうが、私たちには大事な故郷で、お互いに助け合い、物がなければゆずりあい、嫌な仕事でも結(ユイ)をして、笑って唄って働きました。生活は貧しくても心は豊かでした。」(増山たづ『徳山村写真全記録』影書房1997年)

 今、日本各地の山里で、ダムが建設されなくても消滅しようとする集落をなんとかもりたてようと、都市住民との交流をする活動が展開されている。その中で特徴的な声は、以下のような地元の人も始めてみるまで思いもよらなかったものであった。「まちの人がきていっしょに農作業をやって、はじめて米作りを楽しいと思った」「皆さんが帰ってひとりで作業しているとしみじみと寂しくなった」・・・
 田植機が入り、稲刈り機が入るとともに日本の山里からユイが消滅した。厳しい労働から開放されるひきかえに「笑って唄って働く」働き方が消滅した。今は一家に1台、何百万円もするコンバインがある。一年に数日しか使わない機械である。経営的には立ちゆかず、息子・娘たちは都市に出て行った。どうせ自分たちも趣味のようにやっている田んぼならば、まちの人たちの楽しみに使ってもらってもよい・・・。
 
 嫌な仕事はみんなで楽しく笑って唄って。今日のにぎやかな山里は、ぎこちないながらもその新しい形を示唆しているかもしれない。そして都市住民にとってこそ、そのような働き方がありうるということの学びと気づきの機会である。

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
THANKS! (daizusensei)
2009-06-14 19:14:22
このたび一週間のアクセス数(IP)がはじめて1000を超えました。多くの皆さんに読んでいただきありがとうございます。数なんてどうでもよいことですが、はじめた当時のひとつの目標でしたのでうれしく思っています。今後とも精進しますので、どうぞよろしくお願いします。
返信する

コメントを投稿