だいずせんせいの持続性学入門

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化石燃料文明について(2)

2013-09-19 09:08:43 | Weblog

 化石燃料文明は化石燃料が枯渇すれば終焉する。これは自明である。ただ自明ではないのは、枯渇よりもずいぶん早い段階で危機的状況になる可能性があるということだ。というのは、石油採掘の経験から明らかになったように、一つの油田の寿命にわたって一定の生産量を維持することはできない。年間の生産量は採掘開始から右肩上がりで上昇したのちに、ピークに達し、その後は右肩下がりで減少する。全体としては釣鐘型のカーブを描く。これをハバート曲線と呼び、一定の広がりをもつ油田地帯全体の生産量の変化をよく記述するモデルとなっている。

 資源が枯渇するよりもずっと早い段階で危機的状況が現出することをわかりやすく提示したのは、1973年に発表されたD.H.メドウズ他による『成長の限界』である。これは、コンピュータシミュレーションによって21世紀の世界の人口、農業生産量、工業生産量、資源量、汚染量の変化を予測したものである。ここで考えられている資源は化石燃料だけでなく地下資源一般を想定している。いずれにせよ地下資源は品位が高くしたがって採掘が容易なものから順に採掘され、だんだんと品位がおちて、よりコストがかかる資源の採掘に移行する。そうすると、そこに投資しなければならない資本が急増して、工場設備などその資源を利用して商品を生産するところへの投資が減少する。そうすると全体として工業生産が縮小再生産となって急減する、というシナリオを描いている。彼らの計算によれば工業生産のピークは21世紀前半(つまり、まもなく)とされている。
 彼らが同時に描いているのは、工業生産が減退すれば、化学肥料の生産も減退し、現在では70億人に達した人口を賄いきれなくなり、人口も減少に転じるというシナリオである。ようは大量の餓死者が出る。それも子供を中心に。『成長の限界』はその際の政治的、社会的現実のシナリオまでは描いていないが、それはまさに文明の崩壊というにふさわしい政治的・社会的混乱状況が現出するだろう。

 『成長の限界』では、資源を地下資源一般という抽象的なものを考えている。実際の化石燃料の資源量は、石炭は生産ピークまでもう100年くらいは持ちそうである。天然ガスも埋蔵量はどんどん増えている状況で、生産ピークまで少なくとも50年くらいはあるだろう。『成長の限界』のシナリオにもっとも近いのは石油である。

 20世紀は化石燃料の中でも石油が主人公の時代であった。石油が最終的に枯渇するのは22世紀に入ってからだと思われるが、その生産ピークはまもなくやってくるだろう。生産史の前半、生産量が右肩上がりで上がるのと歩調を合わせて需要も伸びていった。端的にいうと、車の数が増えてきた。現在でも、中国とインドという2大人口大国で経済発展が進み、自家用車の普及が急速に進んでいる。それはその需要増に見合った石油の生産が可能となっているからである。それがピークに達したのちには、生産量は減少し、必要とするすべての需要を満たすことができなくなる。ここに残った石油をだれがコントロールするのかという深刻な利害対立が発生する。
 すでに世界はそのような段階にきている。湾岸戦争、イラク戦争という二度にわたって戦われたイラク・フセイン政権とアメリカ・ブッシュ親子政権の戦争は、イラクの地下に眠る豊富な石油の管理権をめぐる戦いだったと言ってよい。実際、その管理権は、湾岸戦争によって国連の手へ移譲され、イラク戦争の後には、アメリカとイギリス政府に移譲された。
 残る中東の産油国でアメリカの意中にないのはイランである。ここにイラン危機の根本的な原因がある。中南米ではヘビーオイルの生産が本格的にはじまったベネズエラとアメリカの間で政治的な緊張が高まっている。石油の埋蔵量の知識をもって世界情勢をながめれば事態は単純明快に理解できる。

 石油生産のピークにより世界が危機的状況になるということは1960年代にはエネルギーの専門家の間で理解されていた。そしてそれを回避するシナリオとして考えられていたのが原子力の開発である。原子力といっても現在世界で普及している軽水炉による発電ではない。高速増殖炉によるプルトニウムの利用である。

 軽水炉は天然ウランを燃料として用いる。ウランの中でもわずか0.7パーセントしか含まれないウラン235のみが燃料となる。それだけであれば、世界の天然ウランの資源量からして、石油を代替するような量はない。現状で推移すれば21世紀の後半には枯渇するだろう。一方、使用済みの燃料の中で生成されているプルトニウムを取り出してこれを再利用し、さらに燃えないウラン238もいっしょに原子炉に入れておけば、プルトニウムが作られる。これが高速増殖炉であり、これを利用する核燃料サイクルが確立すれば、軽水炉のみの場合よりも120倍のエネルギーが取り出されると考えられている。これではじめて石油を代替できる資源量となる。
 したがって、1950年代に原子力開発が本格化した当初から、最終目標はプルトニウム利用であって、軽水炉による天然ウランの利用はその通過点にすぎないのである。

 しかしながら、プルトニウムは天然ウランに比べて格段に危険な物質である。人体にとって有害というだけでなく、核兵器を容易に作ることができる。天然ウランの塊が目の前にあっても、ここからウラン濃縮という難しいプロセスを経なければ原子爆弾を作ることはできない。一方、プルトニウムが目の前にあれば、すぐに原爆を作ることができる。したがって、その生産、保管、移動には政治的なリスクが伴い、いきおい国家的な管理のもとで秘密主義的な体制として運用されることになる。

 石油の生産ピークまでに高速増殖炉を実用化させ、プルトニウム利用を軌道にのせる。これが1960年代に考えらえていた標準的な世界のエネルギーシナリオであった。それは1973年のオイルショックを経て、より切実な課題と認識されていた。それに異を唱えたのが、1978年に発表されたE.ロビンスによる『ソフト・エネルギー・パス』である。ロビンスはプルトニウム利用社会に向かう道筋をハードパスとし、一方、自然エネルギーを利用する社会に向かう道筋をソフトパスとした。ロビンスは二つの重要な指摘をした。一つは、ソフトパスが現実的なシナリオとして考えらえるということ、もう一つは、プルトニウム利用と自然エネルギー利用は共存できず、ハードとソフトの両パスの折衷はありえないとしたことである。
 この本の副題は「永続的平和への道」である。ロビンスは、プルトニウムを利用する社会は管理的強権的な社会にならざるを得ず、そのような国家ばかりの世界で世界平和は実現できないと論じた。一方、自然エネルギーは誰でも理解できる等身大の技術であり、社会はより民主的なものになるとして、ソフトパスをとるべきことを主張した。

 ロビンスの議論から30年以上が経過した。その後の世界の動きは、ロビンスの議論したようにハードパスとソフトパスのせめぎ合いであった。そして折衷はないとした彼の議論の正しさが証明されたといえるだろう。つまり、原子力の導入をやめる決断をしたデンマークや将来の脱原発を決めたスウェーデン、ドイツなどで、自然エネルギー技術の開発とそれを社会で広く活用するための制度の導入がすすんだ。一方、原子力を導入し、今後も継続していく政策をとっている国は、もちろん自然エネルギーの導入を謳っているものの、これらの国々に技術的にも政策的にも大きく後れをとっている。日本はその典型である。

 一方、ロビンスが想定しなかった事態も発生した。高速増殖炉の開発が順調に進まず、アメリカ、イギリス、フランスはこの開発から手を引いたこと。その結果、石油の生産量ピークが来るまでにプルトニウム利用を軌道にのせるというシナリオはほぼ実現不可能になったということである。(つづく)

 

 

 


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