だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

二つの林業(2)

2006-09-24 16:00:21 | Weblog

 フィールドツアー二日目は愛知県稲武町(現豊田市)の(財)古橋会理事長、古橋茂人氏に古橋林業の山を案内していただいた。古橋源六郎と言えば、今日この奥三河地方が見事なスギ・ヒノキ林で覆われ、林業地帯となる礎となった人物である。
 古橋家は江戸時代、稲武町の前身稲橋村で代々造酒屋を営み財を蓄え庄屋を勤めた名家であった。6代源六郎は天保の飢饉に際して村民に食糧支援をするとともに、飢饉の度に離散・廃村を繰り返す村あり方に心を痛め、村の共有地に植林をしてその収益を村の基盤にするということを始めた。村民に範を示すためまず自分の持山に奈良県吉野から導入したスギの苗木を植えた。天保の植林である。明治に入って源六郎は各戸が年間に100株の苗木を植えて100年育て、101年目から1年分ずつ輪伐しその後に苗木を植えるという100年計画の植樹法を始める。村民が植樹作業を行うにあたっては古橋家から1日1人玄米一升の支給を受ける。源六郎はそのための田の運用を他村に委ね、たとえ古橋家が衰亡しても植林事業が続けられるように配慮している。
 この100年計画の植林事業が稲橋村だけでなく、愛知県の事業としても取り上げられ、周辺の村々へも普及していく。現在の地名で言えば愛知県設楽町、豊根村、長野県根羽村などである。6代源六郎の影響が及んだ範囲が今日のスギ・ヒノキを主体とする奥三河林業地帯となった。
 稲橋村の100年計画はみごとに成功し、大正年間、8代源六郎の時代に最初の収穫伐が行われている。その後8代源六郎は後継者がいない古橋家の財産の多くをまとめて(財)古橋会を設立して公益事業に投じることとし、昭和の戦争の敗戦の年に逝去した。古橋会は実弟の川村貞四郎に委ねられ、地元に湧出する鉱泉を利用して公共鉱泉浴場をつくって村民に無料開放したり、名古屋市内に奨学施設を作って村のこどもたちの高等教育を支援する活動を始める。
 茂人氏は長野県出身で戦争中重爆撃機のパイロットとして旧満州で敗戦を迎え、九死に一生を得て復員する。その後川村氏の公益事業に興味を持ち「私淑」するうちに、稲武町の招かれ、川村氏から古橋会の運営を任されることになり、その後50年間古橋会理事長として古橋家に伝わった山林の経営を行うことになる。現在82歳。杖をついてではあるが、足取りもお話しもしっかりして元気そのものである。

 まず茂人氏は「非皆伐施業複層林」の林に案内してくださった。100年ほど前に植えられたヒノキがすくっと伸びている林間に40年ほどの小さなヒノキが育っている。茂人氏の森林経営は林業技師だった北原宣幸氏との二人三脚である。北原氏は長野で林業技師をしていたが、茂人氏が古橋会を任されるころに知り合って意気投合し、稲武に名大農学部の演習林がつくられると招かれてその技官になり後に教官になる。
 6代源六郎の100年植樹計画は戦後頓挫する。すなわち、戦後の復興に必要とされる木材を供給するために政府は40年から45年の伐期(つまり皆伐して収穫すること)を設定することを指示してきた。おおかたの山は皆伐された。しかし古橋会はこれに従わなかった。稲武では皆伐によって山が崩壊する経験をしており、茂人氏、北原氏は皆伐をしないやり方を模索する。その中であみだされたのが「非皆伐施業複層林」である。普通の林業のやり方は収穫のためにすべての木を切り払った(皆伐)した後に苗木を植えて更新する。古橋会では基本的に収穫は皆伐でなく択伐で行う。更新は苗木を植えるのではなくて、自然に落ちた種から生えてくる苗を育てて複層林(林齢のちがう木がいっしょに生えている林)とする。
 スギ、ヒノキには種を多くつける年とそうでない年があるという。種が多く付いた年を見計らって、択伐を行って林内を明るくする。そうすると、種から発芽して苗が生長していく。適当な間隔になるよう間引いたり、移植したりして次世代の木を育てるというわけだ。私たちが案内された最近択伐された林では高さ数cmのヒノキの赤ちゃんがあちこちに芽吹いていた。苗を育てて植栽するという重労働が不要となる。
 収穫された木は100年生のヒノキである。今日木材価格が下がったと言ってもそれは40~50年生までの木の話であって、このような立派な高齢樹は今でも高い値がつくという。その収益で他の林の間伐など必要な作業を行う。余った分は有価証券に換えて蓄積するのが古橋会のやり方という。みごとな林業経営というべきだろう。古橋会はその収益で山深い地元に公共浴場や奨学施設だけでなく保育園や公民館さらに病院を作ってきた。地域の生態系資源を持続的に活用して地域の問題を解決するという、私が自立した持続可能な地域づくりと呼んでいるものの具体的な姿がここにあった。

 次に案内されたのは、6代源六郎が最初に自分の山に植えた天保の植林地である。それから173年を経た立派なスギ林があった。樹冠は遙か高くてよく見えない。全体が大きなドームで覆われているようだ。直径1mはあろうというスギがそれを支える柱のようにすっくと林立している。静かでおだやかな空間だ。
 茂人氏は200年での望ましい立木密度を目指して、今年11本ほど択伐するという。全部で2500万円ほどの売り上げが想定されているという。1本切るのに何秒、という生産性云々の世界とはまったくちがう林業だ。むしろ直径1mの木を他の木を傷つけずに倒すというきわめて高度な技術と技能が要求される作業となる。その作業をする人々は6代源六郎につながる事業に参加することになるこの仕事を大いに誇りに思うだろう。その材を最終的に購入し利用する施主にとっても大きな誇りとなるし、それにみあった値段で買い取るのだろう。

 200年を過ぎたらどうするのですか?という学生の質問に答えて、茂人氏は「300年、さらには1000年をめざす」と語られた。択伐をしながら、次世代の苗を育てながら、源六郎の意思が代々受け継がれていくのだろう。173年前に植えられた林の中で茂人氏から1000年の言葉を聞いた時、私は背筋がぞくぞくするような感動を覚えた。すでに6代源六郎の100年植樹法に事業の目標として1000年という時間が書かれているのである。私たちが「千年持続学」なるもののコンセプトに思い至ったのは西暦2000年のことだったが、それは私たちだけの思いつきではなく、日本の山深い地で連綿と受け継がれてきた思想なのだった。
 茂人氏の息子さんは医者になり、最近、稲武の地に高齢者医療を中心とする古橋クリニックを開業された。その建物はすべて古橋家ゆかりの山の材で建築された。山に木が生えている限り、6代源六郎の志が受け継がれていくのである。

(古橋林業について詳しくは古橋茂人・北原宣幸『新古橋林業誌』(財)古橋会発行2003年にある。)

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1 コメント

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森の健康診断 (高橋あきら)
2006-11-13 13:45:58
先日は、11月5日の豊川森の健康診断に参加いただきありがとうございました。
おじさんたち計算が苦手なので大変助かりました。

さて、この二つの林業の問題は、豊川森の健康診断にも問題を突きつけます。

「森の健康診断」わかりやすいでしょ?
 「手遅れ」か「健康」かすぐに数値化できる。
 でも、その一方で島崎式密度管理図に判断根拠を絞った結果(この根拠も一般的に使用されている公的人工林管理の公式・データに依拠しているものと高橋は思っています、というのは自治体や森林組合がのってこんと市民活動の広がりが生まれない)は一面的過ぎるという批判もあります。
 
 本来は、これをあくまでも豊川流域地域の最低限の合意事項を満たす数値として、つまり「たたき台」として提示した上で、各山主なり、森林整備主体が判断していくものであると思われるます。が、多様な「市民」の参加を促していくのに、今の時代にとっての「わかりやすさ」は捨てきれないところがあります。
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