だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

脱成長論(1)

2013-06-21 22:56:57 | Weblog

「偉大な経済学者ケネス・ポールディングがかつて述べたように、『有限な世界の中で幾何級数的な経済成長が際限なく続くと信じる者は狂人か、もしくは経済学者である』。肝心なことは、今やわたしたち全員が大なり小なり経済学者であるという点だ。」セルジュ・ラトゥーシュ『<脱成長>は世界を変えられるか?』作品社2013年

 私が学んだ地球科学では、ものごとが幾何級数的(指数関数的ともいう)に増大することを「暴走過程」といって、システムが不安定で早晩破たんすることを指す。それが一般社会では、経済成長率が常にプラスであること、すなわち国内の商品の生産量が指数関数的に増大していないと、「景気が悪い」といって問題だという。地球科学的に言えば、経済成長率はゼロを中心にプラスにふれたりマイナスにふれたりするのが「ふつう」の状態である。日本社会は、ここ10年来まさにそういう状態にある。すばらしいではないか。高度経済成長の熱狂が終わり、低成長時代にも確実に経済成長した。もう宴はおしまい。「日常の日々」に戻るときが来たのである。

 もちろん世界に目をやれば、経済成長の熱狂の真っ只中にある。中国、インド。この2大超大国が宴たけなわである。そして、アジア、アフリカ、中南米の国々からも宴の開始を告げるけたたましい音楽が聞こえてくる。

 その中で、日本は世界に先駆けてしらふの日常に戻ることができる。ラトゥーシュの言葉で言えば「つましくも豊かな」暮らしが実現できる条件の整った社会である。

 しかしながら、日本においては多くの人は、世界の宴をうらやましく思う気持ちがまだ強いらしい。願わくば、そこに参列していっしょに宴を楽しみたい。しかし、それは日本を出ていくことによってしか実現できない。それが日本の大企業が多国籍企業化した理由である。最近では中小企業も海外進出が盛んである。そこでは「座して死をまつか、世界にうってでるか」と語られる。そういうふうに発想するのは、私たちが大なり小なりお金の額を通してしか世界を評価できない経済学者であるからだ。

 そうではなくて、大なり小なり地球科学者や生態学者でいこうではないか。原生林では、木々が枝を広げ葉をしげらせることによって、唯一の資源である太陽光を最大限に利用している。したがって、林床には光が届かず、若い木は育たない。一本の大木が倒れなければ、次の世代は成長できないのである。そうやって森は命をつないできた。私たちもそういう森の命の一員に戻るときが来たのである。

 


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