だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

脱成長論(2)

2013-06-22 21:28:00 | Weblog

「ハムスターのしあわせ」という話を聞いた。ハムスターは何も心配しない。しあわせである。毎日十分な食べ物をもらえるから。でもそれは飼い主の男の子が興味をもっている間だけ。明日になれば他のことに夢中になって餌をやるのを忘れるかもしれない。そんなことをおバカなハムスターは知らない、というお話。

これは普通には「井の中の蛙」と同様、しあわせと思っていても、本当は能天気なしあわせの可能性がある、もっと視野を広げなさい、主体的に生きなさい、という教訓として解釈されるらしい。

でも私はこの話を聞いた時に、真逆に解釈した。
これこそが本当のしあわせだと。

これはキリスト教の教えでもある。神を祝福しなさい。何も心配する必要はない。必要なものはあなたにあらかじめ与えられている。神さまは手を差しのばしている。あなたは自分の手を伸ばすだけでよい。

これは仏教の教えでもある。ブッダが出家したというのは、文字通り、ホームレスになるということだった。托鉢によって日々の糧を得る。何も心配いらない。在家のものは施しによって功徳を積むことができる。出家者が施しを得るのは、施しをする者への大きな貢献である。

これは自然農の教えでもある。あなたが生態系の一員として生きる時、農作物はあなたが育てるのではない。それは自ら育つのであって、それがあなたの糧になるのは生態系からの施しである。何も心配いらない。あなたに必要な量が収穫できることは約束されている。

ハムスターは心配しない。しあわせである。それにひきかえ人間は心配ばかりしている。その結果として、自分の力を十分に発揮できず、また人とのコミュニケーションがうまくいかず、チームワークの力を十分に発揮できない。ものごとはうまくいくようにできているのに、自分で状況を無理に操作しようとして、うまくいかなくなる。その結果として、十分な成果や収穫ができないという事態におちいる。そんなことになったらたいへんだと、また心配する・・・おバカなのはハムスターだろうか、それとも人間だろうか?

でも、本当に飼い主の男の子が飽きてしまって餌をやることを忘れたら?・・・その時はその時。いずれにせよ、どうすることもできない。ただ受け入れるのみ。
でも、その結果として死ぬことになったら?・・・その時はその時。ただ死を生きるのみ。
ハムスターのしあわせとは、悟りの境地とも言えるだろう。

でもその境地へは、生身の身体をもつ人間としては、そう簡単に到達できない。でもそれに近づくべく努力することはできる。日々の不安を手放し、心配しないでいること。恐れないでいること。そのことによって自分の魂を解放し、いきいきと生きること。
私はハムスターのように生きたいものだと思う。

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