だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

どこから来てどこへ行くのか

2007-07-25 01:19:43 | Weblog

 「医師は・・・もはや手の打ちようがない、何もできないという発言は極力、避けなければならない。そういう意味で現時点の抗がん剤療法には心のケアとしての意味も大きいのではないだろうか。最初は延命のことばかりを視野に化学療法を開始するとしても、そのプロセスを通じて化学療法の限界性とともに、残された人生を悔いのないようにするという目的に目覚めてゆくことは可能であろう。」(額田勲『がんとどう向き合うか』岩波新書2007年、p.163)

 恐ろしい考え方と私は思う。抗がん剤療法は、がんの縮小をめざして行うもので、たいへんな副作用がある。抗がん剤というのは、がん細胞の細胞分裂を阻害する薬剤であるが、正常な細胞の分裂も阻害するので、まったく普通の暮らしをしていた患者でも、猛烈な吐き気や倦怠感、下痢、頭髪の脱落などで消耗してベッドから起きあがれない病人になってしまう。投薬が終了すればまた回復するのであるが、場合によっては免疫を強く抑制するので、感染症でさらに長く苦しまなくてはならないリスクも高い。そのようなリスクを賭しても、せいぜいがんが縮小するだけであって、完治することはそもそも目的とはならない。縮小してもむしろ弱った免疫力のせいで、その後に急激に大きくなったり、他の場所のがんが大きくなるリスクも高い。
 しかし、そうであっても、末期において他に治療の方策がないとすれば、「奇跡」を信じて化学療法を望む患者や家族が多いという。その結果は、多くの患者が、仮に数ヶ月延命できたとしても、ほぼ同じ期間、貴重な最期の時間を重篤な病人として過ごさざるを得ない、ということになる。それならば、動けるうちにやりたいことをやり、苦しまずに穏やかに逝った方がよかったかもしれない、と残された家族は思い悩むことになる。「抗がん剤療法は心のケア」というにはあまりに残酷な日々と私は思う。

 医師たちは、明確な効果が望めないのに、患者のQOLを極端に下げてしまう手術や抗がん剤療法をむやみに行うことや延々とやり続けることについて、反省をしようとしているように見える。しかしながら、患者と家族がそれを強く望むという。医師としては「見捨てるのですか」と言われて、黙っているわけにはいかないのかもしれない。医師の苦悩が感じられる。そして患者と家族の苦悩はさらに深い。

 死が「私」のすべての終わりだとすれば、これほど恐ろしいことはない。一ヶ月でも一日でも一時間でもどのような手段を使ってでも病気と戦い、長く生きていたいと思うだろう。
 しかし、人間はいつかは死ぬのである。つまり、その凄惨な戦いはつねに敗北で終了せざるを得ない。とすれば、最初から負けると分かっている戦いはしない、という考え方があってもよい。

 すべての宗教はそのような考え方を薦めている。ひろさちや『狂いのすすめ』集英社新書2007年は仏教の考え方を説明している。人間は死ねばお浄土に行く。お浄土は阿弥陀仏がとりしきる世界であり、阿弥陀仏は住職のようなものだ。お浄土の副住職が観音菩薩で、観音様がお浄土からこの世に遊びに来たのが人間なのだという。私も観音様、あなたも観音様。観音様がこの世にやってくればそれが誕生。死はお浄土への帰還である。遊びとはplayという意味で、阿弥陀仏から与えられた役目を演じる、ということ。この世で思うままに演じて、そしてお浄土に返って行けばよい。
 宗教学者の町田宗鳳氏は『縄文からアイヌへ』せりか書房の中で、個々の生き物の一生をビオス、それに対して不滅の生命の流れをゾーエーという概念で語り、ビオスはゾーエーから派生してゾーエーに返るものととらえている。
 医師の伊東充隆氏は、名古屋で行われた「青空禅フォーラム」で量子物理学の議論を引用して、11次元の宇宙の4次元以上の世界にわれわれは本当は棲んでいるのであり、3次元世界に生きているように見えるのはそこからの写像、投影にすぎない。そういう意味では3次元世界にわれわれは実は生まれていないのであって、そうであれば3次元世界で死ぬこともない、という思想を語られた。
 いずれも、同じ事を言っていると私は思う。一つの生き物の個体の一生というのは、大きな生命の流れから派生して、またそこに返っていくものだ、という思想である。そうだとすれば「私」の死はすべての終了を意味しない。むしろ、誕生と死は永遠に続く生命の営みのひとつの通過点、エピソードということになる。さらには死によってこそ、「私」はそのような大きな生命の流れに一体になれるとも言える。それはもしかしたら希望かもしれない。

 私もまったく同じ事を私の言葉づかいで言いたい。私の一生は、40億年に渡る地球の生命の進化という大きな流れから派生してそこに返っていくエピソードである。私の動物としての、人間としてのいろいろな能力は、私のものではない。40億年の生命の進化の賜物である。
 生命の進化はとてつもない大河である。しかし、それはバクテリアから人間まで、ひとつひとつの個体の生命が無数によりあつまり、それらが代々を受け継ぐことによって成り立っている。私の死は、別の生命に受け継がれる。そうやって、この先もう何十億年か、地球上に生命の大河は流れ続けるであろう。
 生命が進化するということは、個体の死が前提されている。もしも地球上の生命が不死の個体で構成されているとすれば、突然変異も自然淘汰もありえず、新たな能力の獲得はないからだ。私は地球に生まれ、一時期、受け継ぎと変異と淘汰の担い手として地球上をうろうろと歩き回り、そして死ぬことによって進化の物語に参画する。死は、私に人と出会い、自然と出会い、それらを愛することのできる能力を授けてくれ、一時期他の生命を奪うことによって、幸せな人生を送らせてくれた生命の進化への恩返しである。

 あなたも、あなたなりの言葉づかいで、同じ事を考えてみてはいかがだろうか。
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5 コメント

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分子、原子レベルで理解できますが・・・・ (funabashi)
2007-07-25 05:43:56
地球の生命の大きな流れの中の一つの瞬間と自分の生命を考えること、人も物質の分子、原子の集合で大きな流れの中の一つの結節(結び目)であると理屈では理解できます。
が、「僕であることの自分としての意識」は死とともに消えてしまうということには変わらない。
大きな生命の流れの中を生きるということと個としての自分であることの意識が両立というか納得できないのです。それが現在の僕の心境です。
だいずせんせいのような心境にはまだまだのようです。
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THANKS! (daizussensi)
2007-07-25 07:55:44
funabashiさま>
もちろん、私とて、いざという時(例えば余命3ヶ月と言い渡された時)、動揺せずに穏やかに過ごせるという自信はまったくありません。「私」が消えてしまう恐怖にたちつくし、うろたえて、医師がすすめる手術や化学療法を受けるかどうか、胸がひきさかれるように悩むでしょう。

でも今からイメージトレーニング(?)をしておくことが必要と思っています。そして、アタマだけでなく、身体と自然とのつながりの実感とともに、木に問い身体に考えてもらう、ということが必要でしょう。そういうことが今の生の一瞬一瞬を充実させることにつながるように思います。

どの本を読んでも、人間は生きていたように死んでいく、と書いてあります。QODを高めるにはQOLを高めて(その逆も)おかなくてはいけませんね。
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『私』という神話? (bear)
2007-07-25 12:57:52
とっても興味のある話題だったので、ついつい書き込みしてしまいました。
『私』とか『自我』とかって、確かな真実なのかって、時々思ったりもします。
アラスカの先住民の神話にある生死観にふれたとき、
人間が個という神話を持ったのは、ほんのつい最近のことじゃなかったのかと思いました。

私たちが信じ込んでいる自分って、いったいなんだろうかって思います。
教え込まれ、信じ込んでいる自分というものがあまりにも強くなって、個が世界と対立するまでになって、
いろいろと、ちぐはぐな世界を作ってしまっているのかもしれないなんて、妄想してしまいます。

『われわれは、みな、大地の一部。
おまえがいのちのために祈ったとき、
おまえはナヌークになり、
ナヌークは人間になる。
いつの日か、わたしたちは、
氷の世界で出会うだろう。
そのとき、おまえがいのちを落としても、
わたしがいのちを落としても、
どちらでもよいのだ』

『私』を軽んじることではなく、
それを包み込むさらなる神話が生まれてくる時代なのかもしれませんね。
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THANKS! (daizusensei)
2007-07-28 07:51:46
bearさま>意義深いコメントをありがとうございます。個の確立は近代の勝利であり、自由の基礎となりました。一方で、世界から孤立した個でもありました。私たちは自由の基礎としての個は手離すことができません。それでいて世界と一体になるという、まったく困難な課題に挑戦しようとしているのだと思います。
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それほど難しくないのかも (マーム)
2007-08-02 14:55:21
daizusennseiの考察にまったく共感しています。

hunabasiさんの「僕であることの自分としての意識」は死とともに消えてしまうということには変わらない。

とのご意見について、「死とともに消えてしまう」ということの証明は、まだなされていないように思います。「肉体の死後も個の意識は残る」ということの証明がまだ不十分であると同様に。

生まれてこの方、いろいろな情報とともに、刷り込まれた人間観を今一度振り払って、自分自身を内観しさらに止観していくことで、「自分という個の意識」が4次元5次元の世界に一体として存在していることを実感できる。

かも知れませんよ。
宗教家ではなく、普通に暮らしている人でそのように実感している人を何人か知っています。私は、まだですが、ある日突然、実感できるかもしれないと思って、希望を持って生きています。
いずれにしろ、肉体の死がくれば、解答が得られますね。
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