だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

南京

2011-10-14 01:31:49 | Weblog

 今日は、南京市にやってきた。上海から揚子江をさかのぼること400kmあまり、延々と平らな大地が続いて、ようやく山が見え始めたところにある大都市である。

 まず、河西という地区を見学。旧市街地の外、かつては農村で田んぼがひろがっていた場所で、オフィス、ショッピングセンター、マンション街として開発がすすみつつある。真ん中に片側6車線のだだっ広い道路がまっすぐ続く。その脇には巨大なオフィスビルやマンションがまさに雨後の筍のように、続々と建設中であった。自分がこびとになったような感じがする。そのプロセスは以下のようなものだ。
 まず南京市政府が、農民を立ち退かせて、農地を埋め立てて土地を造成する。なぜこのようなことができるかというと、中国では土地はすべて政府のものだからだ。農民には、別の住まい(たいていはマンション)を提供し、仕事先も紹介して、農業をやめてもらう。農民は一気に都会人の生活になる。収入はもちろん社会的地位の低い農民の多くは、それを喜んで受け入れる。市内では「○○村」という看板のかかったマンション街をいくつも見かけた。村人が集団で移転してきた場所である。
 政府はその土地を民間のデベロッパーに売却する。入札で行われるらしく、その金額は、年々うなぎ登りとなっている。そしてその売却代金はそのまま政府の収入ということになる。たいへんなオカネが市政府に入ることになる。

 南京市にも立派な都市計画展示館がある。その展示の中に、南京市の財政収入の変遷のグラフがあった。2000年を150とすると、2009年には900になっていた。実に9年間で6倍!の増収である。今やその収入の半分は、土地の売却益が担っているという。
 展示館には、1億円をかけて作ったという、南京市全体の模型がある。現存するひとつひとつのビルが精密に再現されているだけでなく、都市計画に記された、将来の開発によって建てられるであろうビルも立っている。デベロッパーが設計したビルがその設計図通りに模型化されている。それと同じビルが、現実に建てられていくのである。
 南京市は、得られた収入で、インフラ整備を行う。地下鉄、高速道路、揚子江をまたぐトンネルや橋、上下水道、電気、ガス・・・そうやってさらに郊外に街の開発が広がっていくというわけである。
 
 次に訪問したのは、市街地から橋を渡った揚子江の上に浮かぶ大きな中州の島だ。ここは南京市とシンガポールのデベロッパーが合弁で開発計画をたてている。市街地にするのではなく、「生態村」として環境に配慮した農業をすすめる場所になるべく計画されている。おそらくリゾート開発も伴うのだろう。この島全体が、南京市民の週末の憩いの場所として活用されることだろう。
 バスを降りると小さな村があった。そこにはやたらと横断幕に書かれたスローガンが目につく。「早く移転して、早く開発して、早く利益を得よう」「移転は早ければ早いほど利益は大きい」というようなものがそこらにべたべたと張ってある。大きな看板に「通告」として、計画に基づき移転すべきことが書かれていた。
 都市計画展示館の模型によれば、この村はなくなって、すべて農地になっている。すべての家が移転対象なのだ。家々には「拠家」(移転)というマークが家の壁に赤いペンキであざやかに塗りつけられている。

 その中に、そのマークを白いペンキで塗りつぶして消してある家があった。聞くと、その家の主人は、移転に反対なのだという。年をとって、他の場所に移りたくない、ということのようだ。別のおじさんは、ブドウなどの施設園芸をそれなりの規模で営んでいるらしく、これまでの苦労が水の泡になるといって、移転には反対しているとのことだ。やはり農民のすべてがすんなり移転に応じるわけではないようだ。
 その思いはさまざまだろう。移転にともなう補償が十分でないとして、それを積み増しさせようということもあるかもしれない。一方的な通告では納得できないとして、市政府との対話を求めているということかもしれない。自分たちに支払われる補償の金額に比べて、その土地を売却することによって市政府が得る利益がたいへん大きいことに、納得がいかないということもあるようだ。

 もっとも、そのように反対しているのは、ごく一部の農民のようである。そのうち、この村は消滅するだろう。それが集権的な政府のやり方である。

 中国の研究者に話を聞くと、都市も農村も全体的には豊かになりつつあるのだが、都市と農村の格差にはじまる、「持てるもの」と「持たざるもの」の格差がどんどん開いていて、そのことへの不満が社会の中で蓄積されているという。政府がその対応を誤ると、政治的に不安定な状況になってしまう危険があるという。全体として豊かになっているのに、逆に不満は高まる、というなんとも言えない複雑な状況のようだ。

 夜の南京の街を歩くと、ちょうど日本のバブル期の雰囲気によく似ている。派手な装飾のディスコが並び、客引きの男たちが話しかけてくる。

 私が気になるのは、高度経済成長とバブルがいっしょにやってきたような浮かれた社会の中で、原子力発電所が着々と建設されていることである。年々電力消費量がうなぎ登りになる中で、山峡ダムが完成したら、残るは原子力、というのは中国の人々にとってとても理解しやすい論理である。
 しかし、この国は原発という怪物をうまくマネージすることができるだろうか。高速鉄道事故のような致命的な事故が原発で発生したら、とんでもない被害が生じることになる。ぜひ福島第一原発事故の経験をよくよく学んで、原発建設の是非を、市民を交えて広く深く検討してほしい。

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