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落語「ちしゃ医者」久助のセリフからにじみ出る<従者の美学>

えー、桂枝雀「ちしゃ医者」収録の落語速記本がやっと図書館で借りられました。


『上方落語 桂枝雀爆笑コレクション〈1〉スビバセンね』

で、さっそく久助のセリフから、桂枝雀が信奉する「従者の美学」を読み取ってみようかと。
(枝雀氏が定義された「従者の美学」が何たるかは、この前のブログ記事、
桂枝雀の<従者の美学> ―上方落語「ちしゃ医者」をご覧下さいませ)

その前に「ちしゃ医者」のあらすじ――
人が良いゆえに藪医者と評判の赤壁周庵(あかかべ・しゅうあん)先生のもとへ、真夜中、隣村の村人が急患の知らせにやって来た。取次ぎに出た先生の従者・久助は「先生が診ると、助かる人でも助からんようなことになる」と断るが、村人は「もう病人は助かりそうにない。だが世間体があるので形だけでも診てほしい」と。

久助と村人にボロ駕籠を担がせ隣村へ向かうが、途中で患者の家から「病人はもう死んだ」と知らせに来た人々と出会い、「親戚中に知らせに走らにゃいかん」と村人も知らせに来た人も駕籠を放って行ってしまう。あとに残された先生と久助、仕方なくふたりで駕籠をかいて行くと、顔なじみの小便屋と出会い、たっぷり入った小便担桶(しょうべんたご)と相乗りではあるが、先生は駕籠に乗って帰れるようになった。

ところが途中で立ち寄った先の家の老婆が、小便屋が「駕籠の中は<医者>や」と言ったのを「チシャ」(※注: レタス)と聞き違え、駕籠の中へ手を突っ込んで小便担桶の中をかきまわしては、濡れた手で先生の顔を撫で回した。眠っていた先生はビックリ。おもわず足を伸ばすと運悪くそれが老婆の胸にドーン。老婆の息子が飛んできて仕返しに先生を叩き、仲裁に入った久助が「足にかかってよかった。手にかかったら命が危ない」


枝雀は久助の姿に「従者の美学」を見るといいます。
そして「口では悪く言うけれど、腹の中では先生の世話をさせてもらうのが嬉しい」久助の心情を、噺の中の独白で吐露してもらっている、と。
(※参考 『桂枝雀のらくご案内―枝雀と61人の仲間』)

問題の久助の独白は、村人たちが駕籠をほっぽらかして去り、先生と久助が取り残される場面です。長セリフですが、ここは切らずに引用しましょう。
(読み易いように改行、一行空きを施しました)
どんならんなあ。うちの先生またや、ちょいちょいこういうことあんねん。こんなとこへ放り出されて、真っ暗けの中へ駕籠ごとゴーンと放り出されてどんならんな。またこの先生連れて帰らんならん。どんならんな…。

拍子の悪い先生やな。ひとが言うほど人殺しでも藪医者でもなかったんや。初めにかかった病人が悪かったがな。四、五軒持って回って、どことも手を離した病人をかつぎこまれて、お嬢さんが『先生、よろしくお願いいたします。お父つぁんの命を助けてやっとくなはれ』。
さあ、うちの先生が診てもあかん病人というのがわかったってんけども、うちの先生、心の優しい先生やさかい、『ンー、なんとかなるじゃろう』てなこと言うて請け負うた。請け負うたかて治るような病人やあらへんがな。寿命やがな。死んでしもた。お嬢さんかていっぺん『なんとかなる』と言うてもろたもんやさかい、よけい気ィがカーッっとなってしもて、『この先生が殺したんや、人殺しの先生や』と、その噂がワーッと広がってもうたがな。

医者てなものは半分は神経のもんやでェ。『この先生は結構な先生や。何人もの病人を治してくれはった先生や』と思やこそ、薬の一つも飲んで効くけど、『この先生は人殺しの先生や』てなこと思て飲んだら、効く薬も効かんわ。だんだんだんだん病人は来んようになるわ。金は入ってこんわ。奥さん、とうとう愛想つかして出て行きはったが、うちの先生、驚かんな。『奥やみな、居りゃあ居ったでええし、居らにゃあ居らいでもええ』て知らん顔してはるね。

けど、うちの先生、ありがたいなあ。貧乏な人からはもう一銭も薬代とらんもんなあ。けど、世間の人はそうは思わんはなあ。『こんな効かん薬、薬代の取りようがない』と、だんだんてれこてれこ(※)になったんあんねん。けど、うちの先生、ええ先生やで。ものごとに驚かんさかいなあ。この先生のそばおらしてもらえてるだけで安心するわ。生涯おらしてもらお。

ああ、星が流れた。うちの先生にちょっとでもええ仕事……あっ消えてもうた。あ…運がないねね。何や初め頭フラフラする言うてたけど、よう寝てはるがな。(先生のイビキを真似て)ガーッ…ちゅうて。人間大きいね。先生、先生、大先生、起きてください。先生、藪さん、雀医者、人殺し、起きなはれ!」

(※くいちがい)

――『上方落語 桂枝雀爆笑コレクション〈1〉スビバセンね』収録「ちしゃ医者」より引用。(改行、一行空けはブログ筆者による)
皆さま、いかがでしょうか。
「いやぁやっぱり落語は聞かないと。文字面だけじゃ心情の機微までは分からんねェ」そう仰る方もいるでしょう。ごもっとも。

でもね、こうやって速記を写していて、気付く事もあるのですよ。
「うちの先生」
久助サンは独白の中で、何遍もそう呼ぶんですね「うちの先生」って。
最初の一回だけ「この先生」と言って、その後はぜーんぶ「うちの先生」。

ちなみに、独白以外の場面では「何いうてはんねん、あんた」とか、先生に向かって容赦なく「あんた」呼ばわりでツッコんでます。

それが、眠っている先生の顔見て言うとなると、「うちの先生」。

こういう細かい部分に、従者から主人への多大な愛情がにじみ出てるように思います。いいなぁ。(やっぱり耳でも聞きたくなった)
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