太宰治の、理想の女中。 『ろまん燈籠』

本日の召使 : さと(入江家の女中)
太宰 治 『ろまん燈籠』新潮文庫(平成10年発行)より

太宰治の描く登場人物は、どれも、どこかしら太宰本人に似ている。

「ろまん燈籠」の主人公である五人の兄妹は、それぞれまったく違う性格の持ち主。けれど読めばすぐに、作者の性格のさまざまな側面を、兄妹が分担して受け持っているのだと分かる。

―兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだった。

(「ろまん燈籠」より引用。以下同様)


兄妹は退屈すると、時々みんなで連作の物語を創るほどの文芸好き。
「ひとりが、思いつくままに勝手な人物を登場させて、それから順々に、その人物の運命やら何やらを捏造していって、ついに一篇の物語を創造するという遊戯である。」

物語を書き上げるまでの、兄妹それぞれの奮闘ぶりが、すこぶる面白い。
鉛筆を削り直してばかりで、半べそをかく末弟。
女心を描けるのは兄妹中で私しかいないと自信たっぷりに書き流す長女。
霊感を天降らせようとやたらピアノのキーを叩く次女。
ソーセージほどの太い万年筆で一字一字、冒頭の一行をはっきり書いて、あとが続かない長兄。

人物ひとりをみても「ああ、これ太宰自身のことなんだろうな」と感じる描写があり、兄妹五人を合わせてみても、太宰ひとりが浮かび上がる。

兄妹の中で、とくに「太宰っぽいな」と私が思う人物が、いる。
俗物の次男、だ。

五人兄妹の三番目。真ん中。24歳。
帝大の医学部に在籍。だが病身のためほとんど通学せず。おどろくほどの美形。
(↑ここらへんは自身の頑強な肉体と顔の造作にコンプレックスを抱く太宰の願望の表われか)
吝嗇。ケチ。
人が何か言うと、けっ笑い声をたてて蔑視したがる傾向あり。
好きな作家はゲエテ。しかしゲエテの詩精神そのものよりも、ゲエテの高位高官に惹かれているふしが無くもない。
それでも、兄妹で即興の詩を競作するときには、一番できがいい。

俗物だけに、謂わば情熱の客観的把握が、はっきりしている。自身その気で精進すれば、あるいは二流の作家くらいには、なれるかも知れない。この家の、足のわるい十七の女中に、死ぬほど好かれている。

ああ、ここでやっと、本日の召使、女中さとの登場です。
太宰に一番似ている(とわたしが思う)次男を、死ぬほど好いている女中とは、
いったいどんな娘さんなのか?

夢見る女中の、胸のうち。「わたくしならば、」

女中さとは、沼津辺の生まれ。十三歳で入江家に奉公にあがり、四年経つ。
入江家の家族ぜんぶを「神さまか何かのように」尊敬しており、
この家庭独特のロマンチックな気風にすっかり同化している。
令嬢たちから婦人雑誌を借りて、仕事のひまひまに読んでいる。昔の仇討ち物語を、最も興奮して読んでいる。女は操が第一、という言葉も、たまらなく好きである。命をかけても守って見せると、ひとりでこっそり緊張している。柳行李の中に、長女からもらった銀のペーパーナイフが蔵してある。懐剣のつもりなのである。 ―中略― 長女ほどの学者は世界中にいない、次女ほどの美人も世界中にいない、と固く信じている。けれども、とりわけ、病身の次男を、死ぬほど好いている。あんな綺麗な御主人のお伴をして仇討ちに出かけたら、どんなに楽しいだろう。今は、昔のように仇討ちの旅というものが無いから、つまらない、などと馬鹿な事を考えている。

主人の仇討ちにあこがれている女中(笑)。
かぁ~わいいじゃないですかっ! 
この性格設定だけでも、私ならそれをおかずに、ご飯おかわり二杯イケます。
しかし、そこは太宰。
魅力的な性格設定だけで人物描写を済まそうなどとうすっぺらなことはしません。
ぐいぐい行きます。

さて、正月の入江家。退屈した兄妹は、あのいつもの創作物語の遊戯を始めます。
元旦からスタートして順にまわり、各人締切りは翌日の朝。
ひとり一日をたっぷり使って書き、五日後の夜か六日後の朝には、一篇の物語が完成している予定。

元日の末弟から始まった物語は、二日の長女へと受け継がれ、三日目は、次男。
物語は重要な場面転換を迎えている。
が、体調を崩した次男の筆は、思うように進まない。
布団に横たわりながら、母と、さとのふたりから朝食の給仕を受けるが、頭の中は小説の構想ばかりうずまいている。

ふと、次男はさとに質問する。
「たとえば、だね、僕がお前と結婚したら、お前は、どんな気がすると思うかね。」実に、意外の質問である。
さとよりも、母のほうが十倍も狼狽した。
― 中略 ―
「たとえば、ですよ。」次男は、落ちついている。先刻から、もっぱら小説の筋書ばかり考えているのである。その譬〔たとえ〕が、さとの小さい胸を、どんなに痛く刺したか、てんで気附かないでいるのである。勝手な子である。「さとは、どんな気がするだろうなあ。言ってごらん。小説の参考になるんだよ。実に、むずかしいところなんだ。」
― 中略 ―
「わたくしならば、」さとは、次男の役に立つ事なら、なんでも言おうと思った。母堂の当惑そうな眼くばせも無視して、ここぞと、こぶしを固くして答えた。「わたくしならば、死にます。」
「なあんだ。」次男はがっかりした様子である。「つまらない。死んじゃったんでは、つまらないんだよ。(中略) だめだねえ。ああ、むずかしい。どんな事にしたらいいかなあ。」

けんもほろろな次男の反応。
さとの忠義心も、創作熱に浮かされた主人の前では、まったくお役に立てず。

が、ここからの、さとが、いい。とてもいい。
さとは大いにしょげて、こそこそとお膳を片附け、てれ隠しにわざと、おほほほと笑いながら、まちお膳を捧げて部屋から逃げて出て、廊下を歩きながら、泣いてみたいと思ったが、べつに悲しくなかったので、こんどは心から笑ってしまった。

ああ、なんて乙女で、しかしからっとした、気持ちの良い娘なんだろう。
この一文に、彼女のすべてが描かれているように思います。

ふと、考えました。
なぜ、太宰は、女中さとの人物像をここまで詳らかに描いたのだろうか。
短編小説で、ただの奉公人を、入江家の兄妹家族と同じほどに、大切に描写した必要性は、どこにあるのか?

もしさとが登場しなくても、「ろまん燈籠」の物語じたいは成立する。

入江家の家族像を外から眺める「他者」の視点が必要であるならば、
それはすでに、(おそらく太宰と思われる)話者の「作家」が役目を担っている。

なぜ、わざわざ、さとを登場させ、スポットライトを当てたのか?

わたくしは先ほど、次男がとくに「太宰っぽいなと思う」と書きました。
ひょっとしたら、
「次男(=太宰本人)のそばに、こういう娘が誠心誠意、仕えてくれていたらなあ」
太宰自身の強い願望が、あったのではないだろうか?

創作においては才気煥発だが、乙女心の機微にはうとい俗人の次男(太宰)を、
邪気のない、明朗な心をもつ女中が、敬慕の念で仕えてくれる。

さとは、太宰が想像する「理想の女中さん」なのかもしれない。


さて、本日の召使評価です。
「ひかえめ」と「主人への献身」が群を抜いています。

機転がまったく利かないところが、召使として、ちと痛いか?


ひかえめ 5
さとの「ひかえめ」には、「淋しさ」がふくまれている。
その感情がいやらしくなく「いじらしく」感じるのは、さとの明朗な性格のおかげでしょう。

機転 1
機転は、ききませんねぇ。思い込んだら、ひたすらまっすぐ。一本気。
そこがさとのイイところでもある。

献身 5
もちろん最高点。「主人の仇討ちのお伴」にあこがれを抱くほどですから。

主人からの愛情 2
存在として意識されたことがないのでは。とくに愛する次男からは。
存在感が過剰な召使は、家庭においては目障りでしょうが…
さとのようにあまり意識されないというのも、少し寂しいもんです。

スタイル 4
「色は浅黒いけれど、小さく引きしまった顔である。身なりも清潔に、きちんとしている。左の足が少し悪く、こころもち引きずって歩く様子も、かえって可憐である。」(引用)
いいですね。飾り気のない、偽らない純真さが感じられます。


※記事中の引用文はすべて『ろまん燈籠』新潮文庫(平成10年発行)によります。
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