7月20日の比叡山オープニングコンサートで、大成功の元幕を明けた「JULIE ROCK'N TOUR '75」。
8月からツアーは本格的にスタート、8日のつま恋を除き全て1日2回公演、日程もかなりハードだ。
8月1日 北海道厚生年金
8月3日 青森市民会館
8月4日 秋田県民会館
8月5日 山形県民会館
8月6日 新潟県民会館
8月8日 つま恋 19:00のみ
8月9~10日 名古屋市民会館
8月11日 金沢観光会館
8月13日 岡山市民会館
8月14日 島根県民会館
8月16日 広島郵便貯金会館
8月17日 松山市民会館
8月18日 山口市民会館
8月19日 長崎市公会堂
8月20日 福岡市民会館
8月22・23日 大阪フェスティバルホール
8月27・28日 渋谷公会堂
1ヶ月で20日間、39公演になるだろうか?
とは言っても、この時代のミュージシャン達はジャズ喫茶や米軍キャンプ・ディスコでの無数のステージ、過酷なライブツアーの逸話は数多く、当時としてはこれでも平常運転なのかもしれない。
注目したいのが75年の「つま恋」と言えば、吉田拓郎とかぐや姫など中心に行われた、オールナイトイベントがこの75年の8月3日と4日のハズ。
こちらは日本のフォーク&ロック史に残るコンサートとして映像や資料も多く残され、中には「拓郎・かぐや姫・5万人 炎の12時間つま恋コンサート肉迫写真集」などというタイトルから暑苦しい写真集まで出てると言うのに、8月8日のジュリーのコンサートに関しては情報が皆無なのは何故なのだろう?、年度や日付が離れてるならともかく、わずか数日後ならなおさら気にならずにいられない。
いったい「つま恋」のどの場所でどのようなコンサートだったのだろう、わかっているのは昼間”ジュリーズ”とスタッフによる野球大会が行われ、約100人のファンが観戦したというのん気な情報だけなのが残念。
8月30日、日比谷野外音楽堂で「JULIEVS沢田研二 セカンドライブコンサート」というツアーとは別枠のスペシャルイベントが、昼間の3時から行われた、「全席自由・2000円」という設定も現在のジュリーのライブではありえない。
当時の日比谷野音のロックイベントは金も払わず突破する客、階段がありステージ上に上がってくる客は当たり前、野音ならではの解放的なイベントだったのだろう。
出演は他に、この年ハワイで「サンシャイン・フェスティバル」に出演し数万の客を熱狂させた話題のロックバンド外道、加藤和彦プロデュースでデビュー直前のルージュ、スーパーギタリスト竹田和夫ひきいるクリエイション、プログレのコスモスファクトリー、70年代日本のロック好きにはたまらない名前が並ぶ。
「聖者の行進」では久々にステージに上がるショーケンの姿も見られた、なおこの模様は外道など他の出演者も含めラジオでもオンエアされたらしい。
4月に解散したキャロル、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、カルメン・マキ&OZの1stなど、この年前後から日本のロックバンドも徐々に好セールを見せるバンドが出始め、反面80年代に向かって洗練・商業化も進行してゆくことになる。
ジュリーのツアーに井上バンドと共に参加した「ミッキー吉野グループ」のミッキー吉野も、「ゴールデン・カップス脱退後帰国したらフォーク全盛でガッカリ」し、テレビドラマ・CMの音楽製作を行うスタジオチームにシフトチェンジ、売れるまで月1枚のペースで他人のレコード製作しながらバンドを維持したと言う。
この翌年には「ゴダイゴ」と名乗り70年代後半には大ブレイク、日本のお茶の間にロックバンド&ロックサウンドなるものを浸透させていった1人だが、ヒットしたシングル曲のイメージが強すぎるせいか現在の評価はティンパン・アレー系に比べ低い気がする。
放送中の「悪魔のようなあいつ」の脚本を手がけていた、長谷川和彦の翌76年映画監督デビュー作「青春の殺人者」で、ゴダイゴの最初のアルバムから音楽が使われることになるのも興味深い。
日本で最も早くシンセサイザーを導入した1人でもあるミッキー吉野と、75年は井上バンド側もサリーの脱退、新メンバー加入、渡辺プロから独立しウォーターエンタープライズ設立、10月には日本の女性ロックボーカルの始祖・麻生レミを加え単独公演を行うなど、大きな動きがありメンバー間も悲喜交交、それら全てがサウンド面にも反映されたツアーだったのかもしれない。
夏のツアーも終わり、9月に入ると8月21日にリリースされたシングル「時の過ぎゆくままに」の本格的売出しが始まる。
ここはジュリーのテレビ出演が主題のブログ、それでは「時の過ぎゆくままに」を最初にテレビで披露したのは何時なのか?(ドラマシーンは除く)どのぐらい出たのか?
今更この曲は「ジュリー最大のセールを収め6人の作家に競わせ決めた・・・」うんぬん語ったとこで無意味、誰も語らなかった「時過ぎ」に突っ込んでみようと思う(ジュリー自身も「時の過ぎゆくままに」を「時過ぎ」と略す時がある)。
まず、8月前半に2回出ただけで8月のテレビ露出もドラマを除くと少ない、ここでは「時過ぎ」は歌われてない可能性が高い。
そうなると9月1日放送の「夜のヒットスタジオ」(DVD収録&再放送済み)が初なのだろうか?
ヒントとなる映像が1つ、頻繁にTBSで放送されている「あなたが聴きたい歌の4時間スペシャル」、あの番組でおなじみになってしまった、何度も流れるこの「時過ぎ」映像。
これは75年9月23日放送のTBS「歌のグランプリ」最終回の映像、会場は赤坂プリンスホテルからの生中継。
そこでもう1つ、「あなたが聴きたい」で流れたコチラの映像。
新聞の見出しから、「歌のグランプリ」という番組がパーティー形式の番組だったのを薄々感じてはいたが、この映像も雰囲気とTBSというキーワードから考えて「歌のグランプリ」の映像と思われる。
問題は後ろにサリーの姿を確認出来るのと、サリーが夏服、ジュリーの衣装がドラマの可門良風、ということはサリーの脱退前で季節は夏頃、かなり初期の「時過ぎ」映像と見て間違いなさそうだ。
該当する「歌のグランプリ」を探って行くと、遡り5月20日放送回の「歌のグランプリ」になってしまう、6月6日から始まるドラマ「悪魔のようなあいつ」の宣伝にでも歌ったのだろうか?
もう1つ実は8月12日放送の「歌のグランプリ」にも出演していて、しかも出演者に「岸部修三」の名前がある回があるのだ、この時だけサリーが復帰して加わった可能性も不定は出来ない。
ところがこの回は資料から判断すると別の曲が歌われた可能性が高い・・・というワケで残念ながらハッキリしない。
ただこの「歌のグランプリ」が9月より前、初期の「時過ぎ」映像なのは間違いないとは思う。
同じく75年キャンディーズの映像
会場のパーティー形式的雰囲気から「歌のグランプリ」と思われる
話を戻すと「レコ大」勝負曲「時過ぎ」、9月1日放送の「夜のヒットスタジオ」から10月まで、「ロッテ歌のアルバム」、「ベスト30歌謡曲」、「歌のグランプリ」など1ヶ月に10回ばかりの各番組への出演が続き、売り出しに力が入る様子がわかる。
9月16日放送の「ミュージックフェア75’」では「花・太陽・雨」「残された時間」「時の過ぎゆくままに」、井上バンド+ミッキー吉野グループのバッキングで夏のライブの雰囲気が再現された。
9月29日放送の「夜のヒットスタジオ」は「時過ぎ」で4度出演してるうちマスターはおろか、ファンの当時録画でもこの回だけ見かけない幻の回。
他の3回の衣装や同時期の「時過ぎ」映像から考えると、おそらく黒衣装で歌ったのではないだろうか、いつも予想を遥か上回るジュリーファンのことだ、ある所には必ずある気はする。
9月26日にはドラマ「悪魔のようないあいつ」が全17話いよいよ最終回をむかえた、途中打ち切りの話も聞く。
演出・プロデュースを手がけた久世光彦自身”あまり視聴率の取れなかった死屍累々のような作品”と酷評しながら、”1番思い出に残ってる作品、出来の悪い子ほど可愛い”ともあるインタビューで話している、視聴率的には良くなかったのは確かなようだ。
”今のように個室で見る、ビデオに録画して後で見るなんてこともなかった、一家で揃って会話をしながら見た最後の時代”とは説得力を感じる、ヒット作の「時間ですよ」や「ムー」に比べあまりにも娯楽性はないドラマ、テレビの見方も違ったのだろう。
実際の「三億円事件」時効成立の12月9日(火)深夜23時頃から10日(水)にかけての各局の報道ぶりも凄まじい。
NHK「3億円強奪事件 時効成立迫る」
日テレ「11PM」時効成立!? 土居まさるの3億円ジョッキー
TBS「時効!3億円事件・その残したもの」
フジ「”3億円”時効成立」
NET「ザ・23」時効!!3億円事件
これが深夜の同時刻に放送、今の24時間テレビが流れてるような時代じゃない、調べながら75年がいかに「三億円事件」時効に沸いたのか今も紙面から熱気が伝わってくるようであった。
一方、スケージュールにレコーディング日がグッと増え、年末に発売されるアルバム「いくつかの場面」のレコーディングがこの頃進められていたらしい。
・・・と思ったが、「9月中旬に仏ポリドールのディレクター、ミッシュル・エルモス・ニーノ氏が来日し仏語曲7曲、英語曲2曲、「追憶」「白い部屋」11曲が録音 フランス向けのLP製作」ともあり、そっちのレコーディングかもしれない。
この頃、”トッポ”こと盟友・加橋かつみのテレビ出演も目立つ、北島音楽事務所に移籍し演歌調の曲をリリースしてた時期だろう。
特に9月5日放送の東京12チャンネル「加橋かつみとデート」が、夜7時台に放送されていたのはタイムマシンがあれば戻って拝みたいような番組、”テレビ番外地”と呼ばれた12チャンネルらしい。
同じく元オックスの野口ヒデトも「真木ひでと」と改名し演歌調で復活を果たしヒット、トッポ以上に多くのテレビ出演をしていた、「転落歌手復活」などこの時代表現もドギツイ。
ショーケンも久しぶりに「お前に惚れた」で、歌手業を再開しこちらもどこか演歌調であった。
見方によっては「時の過ぎゆくままに」もライト演歌・ポップ演歌(?)とも映る、ひょっとして20代後半に差し掛かったジュリーも、事務所の方向性によっては「あなただけでいい」に見られるようなヤング演歌調(??)への転身もありえたのかもしれない。
歌謡曲もGS~筒美京平登場以降ポップ化したと言っても、フォーク~ニューミュージックが台頭してきたと言っても、演歌やムード歌謡の勢力もまだまだ衰え知らずのこの時代、この年最大のヒットは”ド演歌”、さくらと一郎の「昭和枯れすすき」なのだから。
その前年74年は殿さまキングス「なみだの操」、73年はぴんからトリオの「女のみち」が最大のヒット、”ド演歌”が200万枚に迫る勢いで売れたのだ。
こんなこと書くのはやめようかと一瞬思った・・・が先日ジュリー自身が「堯之さん、大野さん達とPYGをやってなければより歌謡曲、ひょっとしたら演歌へ行ったかもしれない」と語る当時のラジオを聴かせて頂き、まんざら間違ってないじゃないかと思ってしまった。
周りのスタッフ・ブレイン達にも恵まれていたのだろう、優れたミュージシャンの周りには優れた人材が集うのは常である。
作詞の阿久悠もこのドラマの話がなければジュリーと関わることはなかったと、著書に書かれてるのもたまたま図書館で見かけてしまった、「時の過ぎゆくままに」はお互いにとってキャリアの最重要曲の1つとなって行く。
10月に入っても「ベスト30歌謡曲」、「歌謡ヒットプラザ」、「ヤングおーおー」、「ドカンと一発60分!」、ドリフ特番など順調にテレビ出演が続く、10月3日・4日には「大阪祭り」(難波球場)とスケジュールにはある。
これが後にテレビ放送もされた大阪球場「音と光の饗宴 沢田研二ショー」に違いない、製作は読売テレビだが関東地区でも放送されたようだ。
関東での放送日は12月13日(土)日本テレビ、驚いたのが放送時間、朝の9時(!)からの1時間枠、朝起きて新聞見たら終わってるような時間帯。
いったい誰に向けての放送だったのだ?、なんと大らかな、ある意味雑な時代だろう。
この後も「時の過ぎゆくままに」の快進撃は続くかに思えた、ところがここで一旦「時過ぎ」のセールにちょっと待ったが入る。
10月18日から11月12日まで約1ヶ月もの長期間、先日亡くなられた出目昌伸監督の映画「パリの哀愁」撮影と海外盤レコードのプロモーションのためフランスへジュリーは渡り、それに合わせる様に18日以降テレビ出演は事前収録したいくつかの番組以外、日本での露出はバッサリと途絶えてしまう。
東京~ヨーロッパの度重なる往復、過密なスケジュールに追われ、甘い新婚生活もままならず「スレ違い」などの報道も囁かれ始めた。
ジワジワと増殖するフラストレーション、元々発火しやすい爆薬の導火線は徐々に伸びて行った、”好事魔多し”とは誰が言ったか季節は問題の12月へと向かう。
テレビにはプロレスラー大木金太郎やボボ・ブラジルが、得意の「原爆頭突き」や「一本足頭突き」をこれでもかと連打する姿がテレビのゴールデンに映し出されていたのもちょうどまたこの時代。
ゴールデンに週に3団体もプロレスが放送され高い視聴率をはじき出していた、「頭突き」という今にしてみると一見突拍子もない技、逆に今ではなかなか見かけない光景を、ごく日常的に見かける機会が現在よりずっと多かったのだ。
やっかいなことに、ただただ「頭突き」一本槍で試合をする大木金太郎は複数の団体のリングに上がり、それだけテレビに映し出されるその技を見かける確立も高かったのかもしれない、当然ジュリーもその1人であり何が潜在下にインプットされたかは定かではない。
あの吉田拓郎も大のプロレス好きだったと言う、見たことがないとは言わせない、いや決して冗談ではなく・・・